星、導き

 朝の光で、目が覚めた。

 昨夜の夢は、もう輪郭を失っているのに、旋律だけが胸の奥に残っている。

 身支度を整えて廊下へ出た、そのとき。


 ——ふ、と。


 聞こえた。


 言葉じゃない。

 歌でもない。

 ただ、息に乗った音。


 誰かが、口ずさんでいる。


 昨日、弾いた曲。

 夢の中で流れていた、あの旋律。

 足が、自然と音の方へ向く。考えるより先に、身体が動いている。


 角を曲がった先、窓辺で花を整えていたのは——フレシアだった。


 彼女は気づいていない。

 無意識のまま、小さく、小さく、旋律をなぞっている。


「……その曲」


 声をかけた瞬間、フレシアははっとして振り向いた。


「あ、申し訳ございません。

 つい……昔から耳に残る曲でして」


 昔から。

 その言葉が、静かに胸へ落ちる。歴代の姫達も、この曲を知っていたんだろうか。


「誰が……弾いていたんですか?」


 問いは、思ったより落ち着いた声で出た。

 フレシアは少し考えてから、穏やかに答える。


「さあ……。

 ただ、この城では、皆が知っておりますよ。

 “お姫様の曲”だと」


 お姫様の曲。


 今までも、これからも——?


 廊下の窓から、朝の空が見える。

 あの日と同じ、澄んだ青。


 音は、人を越えて残る。

 場所を越えて、時間を越えて。


 私は、知らないはずの旋律に、

 またひとつ、縛られていく。


◇❖◇


 その日の午後、私は一人で音楽室を訪れた。

 理由は、はっきりしている。

 あの曲を、もう一度確かめたかった。


 ピアノの上に置かれていた楽譜は、きちんと整えられている。

 白い紙。丁寧な譜面。

 何度も使われた形跡があるのに、破れも汚れも少ない。


 ページをめくる。


 一頁、また一頁。

 旋律は、知っている通りに並んでいた。

 夢で聞いた音。昨日弾いた音。


 ——そして。


 最後のページが、なかった。

 指が、空白に触れる。

 本来そこにあるはずの紙の重みが、消えている。


「……ない」


 小さく呟く。

 楽譜は途中で終わっている。

 まるで、結末を拒むみたいに。


 なのに。


 私は、その“続き”を知っている気がした。

 頭の奥で、音が鳴る。

 書かれていないはずの和音。

 誰にも教わっていないはずの終わり方。


 胸が、静かにざわめく。


 これは未完成なのか。

 それとも——完成させてはいけないのか。


 楽譜の端に、小さな書き込みがあるのに気づいた。

 消えかけたインク。慎重な文字。


 「星への導き」


 それだけ。


 意味は分からない。

 けれど、その言葉を見た瞬間、胸の奥がひどく冷えた。


 セレスティア・ノワレ。

 お姫様の曲。

 終わりのない旋律。


 私は、楽譜をそっと閉じた。

 続きを“思い出してしまう”前に。

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