snow⛄
第40話 年末のレジ列、一本の譲り
年末のスーパーは、空気が少し硬い。
冷たい外気を連れて自動ドアが開くたび、店内の暖房がふわっと押し戻される。入口の柚子が山みたいに積まれていて、鏡餅のパッケージが白く光っている。私はカゴを腕にかけて、息を吐いた。白くはならないけど、喉の奥に冬の乾きが残る。
正月用の買い物、というほど立派じゃない。いつもの生活に、年末らしいものを少し足すだけ。お餅と、だしと、黒豆の小さいパック。それから、いつもより高い卵。年末になると、卵まで「私、年末です」みたいな顔をする。値札が。
レジへ向かう通路は混んでいた。カートがぶつからないように皆、妙に小さく曲がる。私はその流れに乗って、レジ列の最後尾に並んだ。列の前には、すでに十人以上。レジのピッ、ピッという音が、早くて遅い。早いのに進まない。
起。小さな不便は、列が長いこと。
私はスマホを取り出しかけて、やめた。通知を見ると、年末の焦りが加速する。こういうとき、私は数字に弱い。残り時間とか、待ち人数とか。だから、目の前のカゴだけを見る。カゴの中のネギの青さとか、みかんの網の赤さとか。現実の色は、思ったより落ち着いている。
でも、列は進まない。私の背中に、後ろの人のカートが少し当たった。ガン、じゃなく、コツ、という感じ。小さな接触が、今日は大きく感じる。年末は、神経が薄くなる。
前のレジで、袋詰めに時間がかかっている。レジ袋を買うかどうか迷う人、ポイントカードが見つからない人、支払い方法が決まらない人。私はそれを見て、心の中で勝手にカウントを始めた。――あと何分。――あと何人。やめたかったのに、勝手に始まる。
承。誤解が膨らむ。
そのとき、右側の通路から一人の女性がすっと入ってきた。カゴは小さい。中身も少ない。牛乳一本と、パンと、バナナ。女性は周りを見て、列の途中に入り込んだ。入り込んだ、ように見えた。
私の胸の奥が、カッと熱くなった。
――え、割り込み?
――みんな並んでるのに?
――年末だからって、そういうのアリ?
「アリ」という言葉が出ると、私は自分の中の正義が起動しているのがわかる。正義は便利だ。相手を悪にすると、自分が楽になる。楽になるけど、疲れる。疲れるのに、止まらない。
私は女性の背中を見た。黒いコート。肩にかけたトートバッグ。髪の毛が少し乱れている。乱れているのが、「急いでる」みたいで、余計に腹が立つ。急いでるのは、こっちだって同じだ。
前の人も、ちらっと女性を見た。見たけど何も言わない。言わないと、私の中で「言うべき?」が膨らむ。言うべき、って思うと、心が荒れる。荒れるのに、言う勇気はない。勇気がないと、さらに自己嫌悪が混ざる。年末、最悪のミックス。
私の指先が、カゴの持ち手をぎゅっと握った。プラスチックが少しきしむ。きしむ音って、自分の心の音みたいだ。
女性は列の中で、前の男性に小さく頭を下げた。男性がうなずいたように見えた。見えた、だけ。私はその「だけ」で想像を作る。どうせ知り合いでしょ、とか。どうせ許されたふりでしょ、とか。全部、知らないのに。
そのとき、女性のトートバッグの口から、子どもの小さな手が見えた。正確には、子どもの手じゃなくて、子ども用の手袋。小さな手袋がぶら下がっている。女性がそれを押し込もうとして、うまくいかず、もたついた。もたついている間に、トートバッグの中から、かすれた声が聞こえた。
「……ママ、さむい……」
声は小さくて、でも店内の雑音の隙間に、すっと入ってきた。女性がトートバッグの中を覗き込み、低い声で言った。
「ごめんね、すぐ終わる。すぐ帰ろう」
転。背景が一つだけ見える。
バッグの中に、小さな子がいた。たぶん、寝かけているか、ぐずっているか。女性のコートの裾が、少し濡れている。外を走ってきたみたいに。私の中の「割り込み疑惑」が、一瞬、ほどけた。
女性は、割り込んだんじゃないかもしれない。もしかしたら、前の男性に「すみません、一点だけで、子どもが寒がってて」と言ったのかもしれない。言ったのかもしれない、って想像もまた想像だけど、さっきまでの想像より現実に近い気がした。声があった。寒い、って。
私の胸の熱が、少し冷えた。冷えると、別の感情が出てきた。恥ずかしさ。自分が勝手に荒れていたことへの。
列は少し進んだ。私は女性の後ろから、子どもの声がもう一度聞こえるのを待ってしまった。待つ、って変だ。私は勝手に監視役になっていた。自分の正しさを確認するために。そういう自分が嫌で、目をそらした。
次の瞬間、レジのスタッフさんが「次のお客様どうぞ」と言った。女性の番だ。女性は慌てて財布を出し、手袋のついた手で小銭を探す。指が赤い。冬の赤さ。支払いはスムーズじゃない。スムーズじゃないのが、逆に人間っぽい。
それでも、後ろから誰も文句を言わない。文句を言わないのが、年末の優しさなのか、疲れているだけなのか。どっちでもいい。結果として、空気が荒れないのがありがたい。
会計が終わると、女性はレシートを受け取り、袋を抱えて深く頭を下げた。前の男性にも、スタッフさんにも、列の方にも。列の方、っていうのが、私に刺さった。列って、顔がないのに、気配はある。女性はその気配に頭を下げた。私はその頭の下げ方を見て、勝手に胸の中の硬さがまたほどけた。
そのとき、前の男性が私の方を振り返った。三十代くらい。手に持っているのは、ビールの箱と、正月飾り。
「一本だけなら、先どうぞ」
彼が言ったのは私じゃなく、私の前に並んでいたおばあさんだった。おばあさんのカゴには、牛乳一本と豆腐だけ。男性は自分の荷物を少し引いて、スペースを作った。
おばあさんが「ええ、悪いわ」と小さく言って、でも入った。入るときの動きが、申し訳なさでゆっくりしている。ゆっくりしているのが、逆にいい。急いでない譲り。
私はそれを見て、喉の奥が少し温かくなった。譲るって、相手のためだけじゃない。譲る人自身の空気が、少し楽になる。空気って、実在する。
結。譲りが自分も救う。
私の番が近づいた。私のカゴはそこそこ重い。譲れるほど軽くない。でも、譲るのは「順番」だけじゃない、とふと思った。私はレジに商品を置くとき、少しだけ丁寧に置いた。卵を優先して、潰れそうなものを後にする。スタッフさんが打ちやすいようにバーコードの向きを揃える。そんな小さな譲り。相手の手間を一ミリ減らす譲り。
ピッ、ピッ、と音が軽快になる。レジの速度が上がると、自分の心も落ち着く。落ち着くと、私はようやく「年末」を眺められる。年末は、急ぐイベントじゃなくて、重ねるだけの時間だ。私が急いでも、日付は勝手に変わる。
会計が終わって、レシートを受け取った。紙が温かい。機械から出たばかりの熱。私はそれを財布に入れず、少しだけ手に持って歩いた。温かさを持ち歩きたかった。年末の優しさの証拠みたいに。
出口の自動ドアが開くと、冷たい空気が顔に当たった。息を吐くと、白くなった。白さは一瞬で消える。消えるのに、確かに見える。冬はそういう季節だ。
私は袋を持ち替えながら、列で荒れていた自分を思い出した。割り込みかもしれない、って勝手に決めつけて、心を尖らせていた。尖らせても、世界は変わらない。ただ自分が疲れるだけ。譲りは、相手を助ける顔をして、自分の棘を丸める。
通知が鳴らなくても、世界は続く。レジ列が長くても、年末は来る。私は白い息をもう一度吐いて、次は「一本だけならどうぞ」を自分の口で言えるように、心の中で小さく練習した。
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