第39話 秋の夜長と“読まれる怖さ”
秋の夜は、音が少ない。
窓の外で車が通る音も、夏より遠い。冷蔵庫の低い唸りが、部屋の中心に座っているみたいに聞こえる。私はベッドの上で膝を抱えて、スマホを持ち替えた。通知は切っていない。切れない。切ると静かすぎて、逆に不安になる。矛盾は、生活の基本装備だ。
画面の上に小さな赤い数字が増えていた。
――通知、18。
私は親指で開いて、すぐ閉じた。開いて、閉じる。この動きだけで、指先の体温が上がる。秋なのに、指先だけ熱い。投稿が伸びた。伸びるのは、たぶん、いいこと。いいことのはずなのに、胸がぎゅっとする。
起。小さな摩擦は、拍手と恐怖が同じ音で鳴ることから始まる。
昼間、授業の合間にふと思いついて書いた。大学の図書館で見かけた、小学生の男の子が司書さんに「この本、返すの遅れたけど怒られる?」って聞いて、司書さんが「怒らないよ。返してくれてありがとう」って淡々と言った話。短い話。かわいくて、ちょっと救われて、私はそれをそのままSNSに載せた。
「淡々と優しい人、すごい」
それだけ。
投稿したときは、友だちが二、三人「いいね」して終わると思っていた。だから、軽かった。軽いまま、コンビニで買ったカフェラテのレシートみたいに、気にせずポケットに入れた。ところが夜になって、通知が増えている。増え方が、明らかにいつもと違う。
――いいね、3000。
――リポスト、200。
――引用、たくさん。
数字が増えると、体が縮む。自分の言葉が、知らない人のタイムラインに流れている。流れているのは普通のことなのに、普通のこととして受け止められない。知らない人が読んでいる。読まれている。読まれるって、怖い。
承。誤解とすれ違いが膨らむ。
私は引用欄を見てしまった。見るな、と頭ではわかっている。わかっているのに、見てしまう。冷たいものに触りたくなるみたいに。
「司書の仕事を美談にするな」
「図書館の現場はそんなに優しくない」
「遅れたら延滞だし、ルールは守れ」
「良い話。泣いた」
泣いた、までが同じ欄にある。世界は混ざる。混ざると、私の心が分離できなくなる。褒めも刺さるし、怒りも刺さる。知らない人の怒りは、私を狙ってないはずなのに、私の投稿を通って届くから、私に刺さる。
私は画面をスクロールしながら、自分の肩が上がっているのに気づいた。呼吸が浅い。指が冷たい。夜の静けさが、通知の音を余計に大きくする。ピコン。ピコン。通知音が耳の内側で鳴る。実際に鳴ってないのに、鳴ってる。
「そんなつもりじゃ……」
声に出した。独り言の相手は、スマホ。スマホは返事をしない。返事をしないから、私が勝手に返事を想像する。想像は大体、悪い方向へ伸びる。
――炎上って、こういうこと?
――明日、大学で誰かに言われたらどうしよう。
――司書さんが読んでたらどうしよう。
――書かなきゃよかった。
書かなきゃよかった、が出てくると、もう負けている。負けというか、自分の居場所を自分で狭くする方向へ一歩踏み出している。私はその一歩を止めたくて、スマホを伏せた。伏せても、通知は増える。伏せると、余計に気になる。私はスマホをまた持ち上げた。握り直す。握り直すと、レシートの角が湿るみたいに、手のひらがじっとりする。
そのとき、友だちの美穂からDMが来た。通知の中に、知ってる名前が混ざると、そこだけ温度が変わる。
「見たよ、伸びてるね。大丈夫? 怖いならミュートとか鍵とか、使っていいんだよ」
転。背景が一つだけ見えた。
私は「書く」ことを、いつの間にか「全部受け取る」こととセットにしていた。投稿するなら、反応は全部見るべき。良いも悪いも、受け止めるのが誠実。そういう、どこか真面目な思い込み。
でも、美穂の言葉は違った。怖いなら、距離を取っていい。鍵をかけるのは逃げじゃない。ミュートするのは無視じゃない。安全のための設定。書くための技術。
私は設定画面を開いた。画面の中のメニューは、いつもより文字が小さく見えた。焦っているとき、文字は小さくなる。私は息を吐いて、落ち着くふりをした。ふりでもいい。ふりが、体を追いつかせることがある。
まず、引用ポストの通知をオフにした。次に、特定のワードをミュートに追加した。「炎上」「美談」「司書」。自分でも笑いそうになる。自分の投稿に自分でミュートをかけるって、ちょっと変だ。でも、変でもいい。変な工夫は、生活を救う。
それから、アカウントを鍵にするか迷った。鍵にしたら、知らない人には届かない。届かないと、安心。けど、今さら鍵にするのも怖い。怖いの種類が変わる。「逃げた」と思われそう。誰に? 知らない誰かに。知らない誰かに思われることを、私はまだ気にしている。
私は鍵はすぐにかけず、代わりに「返信できる範囲」を狭くした。誰でも返信できる設定を、フォローしている人だけに変える。小さな鍵。完全な鍵じゃないけど、チェーンロックみたいな鍵。
設定を変えた瞬間、世界が完全に静かになるわけじゃない。でも、通知の流れが少しだけ落ち着いた。落ち着いたと感じるだけで、肩が下がった。体って単純だ。
結。守りながら書く。
私はもう一度、さっきの投稿を見た。自分の言葉を、遠くから見る。自分の言葉は、自分が思っていたより小さい。小さいのに、広がる。広がるのは、私が悪いからじゃない。仕組みだ。SNSの仕組みは、水みたいだ。流れるところへ流れる。流れに飲まれたら苦しいけど、流れそのものを止めることはできない。
だから、私は足場を作る。
新しい投稿画面を開いて、短く追記を書いた。
「いろんな現場があると思います。今日見たのは、私がたまたま見た一場面でした。淡々とした優しさ、いいなと思っただけです」
言い訳じゃなく、確認。自分の本音の輪郭を整える。これも、守りの一つだ。
送信ボタンを押したあと、私はスマホを枕元に置いた。置いて、手を膝に戻す。膝の骨の硬さを感じる。現実の硬さ。現実は、意外と優しい。
窓の外で、雨が降り始めた。秋の雨は、音が細い。細い音が続く。続く音は、通知みたいに急かさない。世界は、誰かに読まれなくても続く。読まれていても続く。
私は部屋の灯りを少し落として、ベッドに横になった。通知はまだ来ている。でも、来ていても、全部を受け取らなくていい。守りながら書く。自分が続くための設定を、私は今日一つ覚えた。
スマホが鳴らない夜は、ちゃんと夜になる。秋の夜長は長い。長いから、怖さも長くなる。でも長いぶん、整える時間もある。私は目を閉じて、雨の匂いを吸った。濡れた空気の冷たさが、頬の内側に触れた。
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