第20話 返信が遅い人の誠実
既読がつくと、時間が急に伸びる。
夏の夜は、スマホの画面みたいに明るい。カーテンの隙間から街灯の光が入って、部屋の角がぼんやり白い。エアコンは弱めにしているのに、床からじわっと熱が上がってくる。私はベッドの上で膝を抱えて、スマホを見た。見たくないのに、見ている。
相手は、海斗(かいと)という人。大学のサークルの友だちの友だちで、何度かみんなでご飯に行って、そのあと二人でカフェに行った。恋愛未満、という言葉が一番しっくりくる距離。近いようで、触れない距離。触れない距離は、画面越しだと余計に曖昧になる。
私はさっき、「今週末、空いてる?」と送った。
既読はついた。
返事はない。
スマホの上で、私の心が勝手に劇場を始める。
忙しいのかな。
返し方を考えてる?
めんどくさい?
断りたい?
……他に誰かと?
想像で決めつけるのは簡単で、簡単なほうに人は流れる。流れる先がたいてい不安なのは、なぜだろう。安心のほうへ流れればいいのに。私の脳は、わざわざ足元の悪いほうへ散歩する。
ピロン、と通知音が鳴った。別のグループチャット。スタンプが飛んでいる。楽しそう。私はそれを開かずに閉じた。今の私は、他人の楽しさの速度にも追いつけない。追いつけないと、ますます遅い返信が刺さる。
私は画面を下へスワイプして、トーク履歴を少し戻った。
海斗の返信は、たいてい遅い。遅いけど、ちゃんと長い。短いスタンプだけで終わらせない。質問には答えるし、こちらの言葉を拾って返す。拾い方が丁寧で、だから私は余計に期待してしまう。丁寧なら、早くもできるんじゃないかって。丁寧と速度をセットにしたがるのは、たぶん私の癖だ。
私は「試す」行動をしそうになった。
例えば、もう一通送る。「忙しいなら大丈夫!」とか。「既読ついてるけど見た?」とか。言葉の形は優しくても、実態は催促。催促って、心の中では笛みたいな音がする。ピーッ。急げ。答えろ。私を安心させろ。
それは違う、と頭のどこかが言う。違うのに、指が動きそうになる。私はスマホを握り直した。握り直すと、手のひらに汗が残る。夏は感情も汗をかく。
そのまま眠ろうとして、眠れなかった。夏の夜の熱は、身体の中に残っていて、考え事の火種になる。私はベッドから起き上がって、水を飲んだ。コップの冷たさが喉を通るときだけ、世界が一瞬まっすぐになる。
次の日の昼、講義の合間にスマホを見た。返事はまだない。既読のまま。私は息を吸って、吐いた。吐いた息が暑い。暑い息を吐くと、なぜか余計に暑くなる。理不尽。
そのとき、海斗から一通来た。
『ごめん、昨日返せなかった。今週末、土曜の夕方ならいける。日曜はちょっと家の用事で…』
文がちゃんとある。言い訳じゃなく、説明。私は胸の奥がふっとゆるむのを感じた。ゆるんだことが悔しい。昨日あんなに心を荒らして、結局この一通で戻ってくる自分が単純すぎる。でも、単純な自分を責めても暑いだけだ。
私は返そうとして、ふと止まった。日曜の「家の用事」。なんだろう。聞いていい? 聞かないほうがいい? 距離がまだ曖昧だから、質問も曖昧になる。
私は短く返した。
『土曜夕方うれしい!どこ行く?』
送信。既読。すぐ返事は来ない。来ないのに、さっきより落ち着いている。理由があると、人は待てる。待てるけど、まだ揺れる。
夜になって、海斗から電話が来た。電話って、通知の中でもちょっと重い。私は一瞬迷って、出た。
「もしもし」
『今、大丈夫?』
「うん……大丈夫」
言い切らない声。夜は声も柔らかくなる。
『日曜のこと、さっき書いたけど。家の用事っていうか……祖母の病院の付き添いなんだ』
病院。
背景が、一つだけ見えた。家族。付き添い。時間が固定される用事。返信が遅いのは、私を後回しにしているからじゃなく、生活のリズムが別の場所で回っているから。
『病院って、待ち時間長いじゃん。スマホは見れるけど、返事を雑にしたくなくて。後でちゃんと返そうって思うと、遅くなる』
その言い方が、海斗らしかった。速度じゃなく、整えたい。整えた言葉を渡したい。遅いことに、誠実が入っている。
私は、昨日の自分の「試したい」気持ちを思い出して、少し恥ずかしくなった。恥ずかしさは、汗と一緒にじわっと出る。私は寝巻きの袖を指で引っ張って、肌から剥がした。剥がす動作で、心の貼りつきも少し剥がれる。
「そっか……ありがとう、言ってくれて」
『いや、言わないと不安にさせるかなって。俺も、そういうの苦手で』
海斗も苦手。苦手って言える人は、わりと信用できる。完璧な人より、苦手を置ける人のほうが、一貫性がある。
電話を切ったあと、私はスマホを枕元に置いた。置いて、手を放した。放すと、胸の中の笛の音が小さくなる。催促の音が遠ざかる。
信頼は、速度より一貫性。
それは頭ではわかっていた。でも体が納得するには、こういう一言が必要だった。背景が一つ見えるだけで、世界のざらつきが減る。
私は自分に、小さな工夫を決めた。待つ技術の練習。
既読を見ない時間を作る。夜は一回だけ確認して、あとはスマホを伏せる。返信が来ない時間に、勝手にストーリーを作らない。作りそうになったら、水を飲む。深呼吸する。扇風機の音を聞く。現実に戻る。現実のほうが、だいたいちゃんとしている。
窓を少し開けた。夜風は熱を含んでいるのに、動いているだけで救いになる。夏の夜の熱は、まだ部屋に残っている。でも私は、その熱を「不安の燃料」にしない練習をする。
通知が鳴らなくても、世界は続く。既読が沈黙でも、相手の生活は続く。私の生活も続く。続くから、私は待つ。待つことを、放置じゃなく技術にする。ほんの少しずつ。熱い夜の中で。
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