第11話「甘い香りと揺れる想い」後編

挿絵画像:https://kakuyomu.jp/users/rikkues/news/822139841709675329


 食堂の裏手には簡素なテーブルがいくつか並び、その上に試作品のお菓子がずらりと並べられていた。

 一口サイズの焼き菓子、クリームを添えたタルト、薄く切った果実を蜂蜜で煮詰めたコンポート。

 甘い香りが空気を満たし、調理担当の職人が腕組みをして生徒たちの反応をうかがっている。


「わぁ……」


 セラは早速、目の前の焼き菓子に手を伸ばした。

 ほろほろと崩れるクッキー生地の上には、果実とハーブを混ぜた小さなクリームが絞られている。

 一口かじると、表情が一気に明るくなった。


「美味しいです、これ! ミネットさんも、これ食べてみてください」


 勧められるまま、ミネットも一つ摘む。

 口に入れると優しい甘さとほんのりした酸味が広がり、自然と頬が緩んだ。


「……美味しいです」


 その様子を見てジグラットは黙って財布を取り出し、調理担当に声をかけた。


「この焼き菓子、こことこれ。二人分、包んでくれ」

「へいへい。殿下のお気に入りってことで、気合い入れて焼いたやつだよ」


 冗談めかした調理担当の言葉に、周りの職員がくすりと笑う。

 ジグラットは特に表情を変えず代金を支払うと、きちんと包まれた小箱を二つ受け取った。


「えっ、いいんですか?」


 セラは目を輝かせて箱を覗き込む。

 一方でミネットは遠慮するように身を引いた。


「あの……私は、その……」


 ジグラットは軽く首を傾げる。


「受け取っておけ。試作品だから数は少ない。あとで欲しくなっても、もうないぞ」


 静かに事実だけを告げるような声音。

 押し付けるような圧も、媚びるような柔らかさもない。


 ミネットの胸の奥で、何かが少し解けた。


 ──やっぱり、優しい。


 気づけば手が前へ伸びていた。


「……ありがとうございます」


 包みを受け取り、小さく頭を下げる。

 ジグラットは「気にするな」とだけ言って視線を外した。


 三人は食堂裏のベンチに腰かけ、それぞれの菓子に手を伸ばす。

 セラは相変わらず表情豊かに感想を口にし、ジグラットは短く相槌を返す。

 ミネットは二人のやりとりを聞きながら横目で彼の横顔を見つめていた。


 ──この人、本当に悪い人なのかな。


 ティアナから聞かされた噂話と、目の前で静かに笑う姿がどうしても重ならない。

 彼女の警告が全て間違いだとは言わない。

 けれど少なくとも今の彼は、自分を怖がらせるようなことは何もしていない。


 セラの明るい笑顔。

 ジグラットの、少し不器用な返し。


 その空気に包まれていると、警戒心は少しずつ薄れていく。


(セラさんが笑ってるなら……大丈夫、かな)


 何かあればアッシュがいる。

 優しい“お兄様”はきっとまた助けてくれる。

 そう思うと、ほんの少しだけ心が軽くなった。


 ◇ ◇ ◇


 その様子を少し離れた木陰から見つめている影があった。

 焦げ茶のショートボブを揺らし、金と琥珀を溶かしたような瞳を細める少女。


 フィノ=コレッティだった。

 彼女は木の幹に背を預け、頬をふくらませながら小さく唇を尖らせる。


「センパイ……また他の女の子を食べ物で釣ってぇ……!」


 呻くような小声。

 セラとミネットがジグラットと一緒に笑っている光景が、胸の奥に小さな棘を残す。


 ──私には、先に声かけてくれなかったのに。


 森族の屋台の時も、甘味の試食の時も。

 いつだってジグラットはさりげなく他の女子の近くにいる。

 あの日、教会の外で誰にも気づかれず冷静に書簡を読み解いていた背中に惹かれた自分を知っているからこそ、その光景は少しだけ苦い。


「センパイのバカぁ」


 小さく呟き、フィノは木陰から身を離した。

 その足音はすぐに人混みのざわめきに溶けていく。


 ◇ ◇ ◇


 夕刻。

 太陽が傾き、廊下の窓から差し込む光が橙色に変わり始めた頃。

 ジグラットは一人、学園の廊下を歩いていた。


 今日一日でセラとミネットとの距離はさらに縮まった。

 特にミネットの警戒心が、目に見えて和らいできている。


 ──順調だ。


 その時、後ろから小走りの足音が近づいてきた。


「ねぇ、センパイ」


 振り返ると、フィノがやや不機嫌そうな顔で立っていた。

 腕を組み、頬をぷくりと膨らませている。


「何だ」

「私には餌付けしてくれないんですかぁ?」


 至極不満げな口調。

 ジグラットは片眉をわずかに上げた。


「さっき見てましたよー。セラさんとミネットさんにだけ、甘い物あげてましたよね」

「見てたのか」

「見てました!」


 金と琥珀の瞳がじとりと睨みつけてくる。

 ジグラットは軽く肩をすくめた。


「そんなに言うなら、今餌付けしてやる。ほら、ついてこい」


 あっさりと言い切ると、フィノの表情が一瞬にして明るくなる。


「ん〜っ♡ さすがセンパイ。話が早いです!」


 ご機嫌を取り戻した彼女は、そのまま当然のようにジグラットの腕へ自分の腕を絡めた。

 ジグラットはひとつため息をつきながらも、振り払うことなく購買部へと足を向ける。


 夕方の購買部には焼きたてのパンやおやつ用の菓子が並んでいた。

 ジグラットは棚を一巡し、フィノの好みそうな小さな焼き菓子を二つほど手に取る。

 会計を済ませると、そのうちの一つを無造作にフィノへと差し出した。


「ほら」

「ありがとうございます、センパイ♡」


 フィノは両手でそれを受け取り、ぱくりとひと口。

 甘さが舌に広がった瞬間、目尻がとろんと下がった。


「……おいし。これ、センパイの分もだから一緒に食べましょうねっ」

「勝手に決めるな」


 そう言いながらも、ジグラットは渡しそびれたもう一つを開けて口に運ぶ。

 二人は購買部を出て、傾きはじめた陽の光の中を並んで歩いた。


「センパイって、女の子に優しいですよね」


 菓子をつまみながら、フィノが何気ないふりをして言う。

 ジグラットは窓の外へ視線を移したまま短く答えた。


「別に」

「別にってことはないと思うんですよね。セラさんにもミネットさんにも、なんか甘い物配ってますし」


 声には軽さがあるが、その奥に観察者らしい鋭さが混じっている。


「必要だからやっている」


 ぽつりと落とした言葉に、フィノの足が一瞬止まった。


「……必要、ですか」


 繰り返す声のトーンがわずかに低くなる。


「女の子を餌付けするのが“必要”って、どういう意味ですかね〜」


 すぐにいつもの調子に戻り、わざとらしく首を傾げる。


「もしかしてセンパイ、飢えてます?」

「は?」

「誰彼構わず口説いて懐柔してるって、そういう……。センパイのえっち♡」


 からかうような声音に、今度はジグラットが言葉に詰まる番だった。

 事実だけを並べれば、「下級生の女子に片っ端から接触している」のは否定できない。

 というよりそもそも、その先に待つ狙いさえ、傍から見ればそういう目的としか思われないだろう。

 ならば――


「だったら、どうだってんだ」


 逆に開き直るように返すと、フィノの狐のような目がぱちりと瞬いた。


「え?」

「フィノ。俺はお前のことも――」


 一歩、距離を詰める。

 フィノは慌てふためき、背中から壁に貼り付いた。


「ちょ、センパイ。ち、近……っ、こ、こんな廊下の真ん中でそういうのはさすがに……!」


 顔を真っ赤にしてぎゅっと目を閉じる。

 その額へ、コツンと軽い衝撃が走った。


「いった」


 痛みと驚きで目を開ければ、ジグラットはもう何事もなかったかのように歩き出していた。


「冗談だ」


 短くそれだけ残して。


「もー……」


 フィノはジグラットの背中を睨みつけながら頬を膨らませた。

 からかわれたと分かっていても、胸の高鳴りはそう簡単には落ち着かない。


 ──今のが、本気だったら。


 想像してしまい、慌ててそのイメージを振り払う。

 頬の熱をごまかすように、フィノは小走りでジグラットの隣へ追いついた。


 失踪事件の夜。

 表舞台で勇者たちが戦っている間、教会の外で冷静に情報を集めていた背中に目が離せなかった。

 自分の好みというべきか、どうやら影のある男性が思いのほか胸にキュンときてしまうらしい。

 特にジグラットは悪評があってのこの掴みきれない態度だ。無駄に整っている顔と、絶えない噂と、王族という血筋と、そして裏を感じさせるような動き。

 それらがフィノの好奇心を刺激し、気づけば常に目で追ってしまう存在となっていた。

 そして彼の態度もまた、まんざらでもないような様子を何度も自分に見せている。


(ただセンパイってば、自分以外の女の子にも意外と優しいんですよねー……)


 それが最近分かってきた。言葉の冷たさとは別に、女性ウケしそうな行動を意図的にとっている節がある。

 自分だけが特別な気がしていただけに、少し期待を裏切られた心地がしてヤキモキしてしまうのだ。


「……私、センパイと一緒にいるの、結構好きですよ」


 気づかれないくらいの小さな声で呟く。

 ジグラットは視線を前に向けたまま、短く応じた。


「……それは、助かるな」


 何気ない返事。けれど、その声には微かな温度があった。

 フィノは満足そうに微笑み、夕陽に伸びた二人の影は、少しだけ重なり合う。


 ◇ ◇ ◇


 翌日。

 学園の掲示板の前に生徒たちの人だかりができていた。

 ざわめきとともに、紙が貼られたばかりの木板に視線が集中している。


「何だ?」


 アッシュは人垣の間から覗き込み、一枚の告知文を読み取った。


『王城儀式と討伐戦について』

『来月、王城にて成人儀式が執り行われる。学園からも選抜生徒が参加予定。詳細は後日通達する』


「王城……か」


 思わず、小さく呟く。

 隣で同じ告知を見ていたティアナが、腕を組んで紙を睨みつけた。


「また面倒そうなことが増えたわね」

「でも、王城での儀式なんてそうそう経験できないだろ。いい機会かもしれない」


 アッシュの言葉にティアナは少しだけ視線を外し、短く答えた。


「……そうね。だからこそ、気をつけないと」


 何かを警戒するような声音だった。


 少し離れた場所から、その告知を眺めている者がいた。

 濃紺の制服に、淡金の髪。深蒼の瞳が、貼り出された文字を静かになぞっていく。


 ──次は、王城か。


 ジグラット=エルステリアの口元に、僅かな笑みが浮かぶ。

 初夏の風が掲示板の紙を揺らし、新たな舞台の予感だけが、ひそやかに学園に満ちていった。

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