第11話「甘い香りと揺れる想い」前編
挿絵画像:https://kakuyomu.jp/users/rikkues/news/822139841709586620
初夏の光が学園の中庭を白く染めていた。
陽射しは春よりいくらか強くなり、けれど木々の葉を抜けて落ちる風はまだ柔らかい。
枝先には若い緑の葉が揺れ、色とりどりの小さな旗が高い位置でぱたぱたと鳴っている。
今日は森族の商隊が学園を訪れる日だった。
年に一度、初夏のはじまりに合わせてやってくる小さな行商団。
期間限定で開く甘味屋台は、生徒たちの間で「この季節の風物詩」として待ち望まれている。
学園の食堂では決して食べられない、森族独特の香りと甘さを持つ品々。
中庭には既に生徒たちが集まり、屋台の周りは朝から小さな祭りのような賑わいを見せていた。
◇ ◇ ◇
「わぁ、もう屋台が出てるー!」
セラ=アルカンが教室の窓辺へ身を乗り出した。
長い翠緑の髪がさらりと流れ、尖った耳が嬉しそうにぴくりと動く。
翡翠色の瞳は中庭にちらちら見えるカラフルな屋台へと釘付けだった。
窓から身をひき、彼女は斜め後ろの席へと振り返る。
「アッシュさん、一緒に行きましょう!」
机に置いた剣を磨いていたアッシュは、手を止めて顔を上げた。
深い緑の瞳がきらきらと期待に満ちたセラの表情をとらえる。
「……今からか」
困ったように笑いながらも、声には嫌そうな色はない。
セラはこくこくと勢いよく頷いた。
「はいっ。森族の商隊の甘味、初夏限定なんですよ? 逃したら一年待ちです」
「一年待ちは確かに長いな。……わかった、行こう」
アッシュが折れると、セラはぱあっと花が咲いたように顔を明るくした。
「やった。じゃあミネットさんも誘いましょう」
弾む声を残し、セラは教室の隅へ駆けていく。
そこではミネット=キャロルがノートを閉じかけていたところだった。
ミルクティー色の柔らかな髪が肩口で揺れ、もふもふとした狐耳が小さく震える。
琥珀色の瞳が駆け寄ってきたセラを不安げに見上げた。
「ミネットさん。中庭の屋台、行きませんかっ?」
「え、私も……ですか?」
声は小さく、二股に分かれたふわふわの尻尾が、椅子の下でおずおずと揺れる。
セラは悪戯っぽく笑いながら手を差し出した。
「もちろんです。一緒に行きましょう!」
誘われたミネットは少しだけ逡巡してから、小さく頷いた。
「……はい」
狐耳がぴんとわずかに立つ。
三人は教室を後にし、初夏の熱を孕んだ廊下を抜けて、中庭へ向かった。
◇ ◇ ◇
中庭に出ると、焼きたての生地の香ばしさと、濃い樹蜜の甘い香りが風に乗って漂ってきた。
森族の商人たちが並ぶ屋台は緑の刺繍を施した民族衣装に木のアクセサリーを揺らして立ち、来客ひとりひとりに笑顔で声をかけている。
木の実をたっぷり練り込んだ焼き菓子。
森のハーブと樹蜜で作られた甘露のゼリー。
色鮮やかな野生果実のタルト。
どの商品の屋台にも生徒たちが列を成していた。
「わぁ、全部美味しそう……!」
セラは目を輝かせながら、あちこちの屋台をきょろきょろと見て回る。
翠緑の髪が楽しげに揺れ、翡翠の瞳が忙しなく動いた。
アッシュはその後ろで苦笑しつつも足並みを合わせる。
「落ち着けって。そんなに走るとぶつかるぞ」
「だって、どれから食べるか真剣に悩むところじゃないですかっ、これは!」
「真剣に悩んでる割に、視線が全部甘そうなやつにしか行ってないんだけどな」
呆れたように言うと、セラは振り向いて舌をぺろりと出した。
「甘い物は正義です」
そのやりとりを聞きながら、ミネットは二人の少し後ろを遠慮がちに歩いていた。
狐耳が周囲のざわめきに敏感に動き、琥珀色の瞳は人混みにまだ慣れない不安を漂わせている。
「あっ、アッシュさん、これ見てください」
セラがとある屋台の前でぴたりと止まった。
木の実をたっぷり詰め込んだ丸い焼き菓子が蜜で艶やかに照り、その上に細かく砕いたハーブがふりかけられている。
「森族特製ナッツハーブタルト……好きな言葉しか並んでないですね、これ」
「ナッツとハーブとタルトだもんな」
「二つください!」
セラが即座に店主へ声をかけると、焼き立てのタルトが紙包みで二つ差し出された。
アッシュが慌てて財布に手を伸ばすより早く、セラは代金を渡してしまう。
「ちょ、セラ」
「いいんです。私が奢ります」
「いや、そういうわけには」
「それじゃ、お互い様です。この前の演習で助けてもらったお礼ってことでっ」
きっぱりと言い切られ、アッシュは一瞬言葉を失った。
思い返せばあの時はお互い様どころか、助けられたのは自分の方だ。
「……俺だって、あの時は助けられたけど」
「じゃあ、お互い様のお礼です」
セラは勝手に結論づけて、紙包みのひとつを差し出した。
ほんの少しだけ、胸の鼓動が速くなる。
──これを受け取ってくれたら、一緒に食べてくれる。
そんな子供じみた期待が、胸の奥でくすぐったく膨らんだ。
「ありがとう」
アッシュが照れくさそうに頬を掻きながら受け取ると、セラの胸がじんわりと熱くなった。
「どういたしまして」
意識していないふりをしながら、口元が自然と緩む。
二人は並んでタルトにかじりついた。
砕けた木の実の香ばしさと、ほどよく効いた森のハーブの香りが舌と鼻腔を満たす。
「……美味いな、これ」
アッシュが感嘆気味に呟くと、セラの顔がぱっと明るくなる。
「ですよね! 私、こういう味好きなんです。森の味っていうか、ちょっと懐かしくて」
“同じものを食べて、同じ味を共有している”
それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温まる。
──アッシュさんと、一緒。
その隣で、ミネットは胸元に下げた《癒輝珠》をそっと握りながら、二人を見つめていた。
狐耳がほんの少し下を向き、二股の尻尾がゆっくり揺れる。
(アッシュさんとセラさん、仲がいいなぁ)
胸の内に浮かぶそれは、暖炉の火を遠巻きに眺めているような、じんわりとした温もりだった。
「ミネットも、何か買うか?」
アッシュが振り返り、彼女に声をかけた。
突然向けられた視線に、ミネットの狐耳がぴくりと立つ。
「え、いえ……私は……」
「遠慮しなくていいぞ。俺が奢るから」
柔らかく言われて、琥珀色の瞳が揺れた。
頬がうっすらと赤く染まる。
「……本当に、いいんですか?」
「ああ。好きなの選べよ」
ミネットはおずおずと屋台に近づき、小さな蜂蜜菓子を一つ選ぶ。
ころりと丸いそれは、森の花から集めた蜜でできていると札に書かれていた。
アッシュが代金を払い、菓子を彼女に手渡す。
「ほら」
「ありがとうございます……」
両手で大事そうに受け取り、ミネットは小さくひとかじりした。
優しい甘さが口の中にふわりと広がる。
──やっぱり……お兄様みたい。
恐怖の夜から救い出してくれた手。
今こうして、さりげなく甘いものを渡してくれる仕草。
温かい、安心する。
彼がそばにいると、世界が少しだけ怖くなくなる気がした。
◇ ◇ ◇
昼食を終えたあと、セラとミネットは学園の裏庭へ足を運んだ。
中庭の賑わいが嘘のように裏庭は静かだった。
木々が作る木陰には涼しい風が通り、草の匂いと土の香りが夏の気配を連れてくる。
石造りのベンチに並んで腰かけ、さっきの甘味の余韻を楽しみながら、二人はのんびりと空を見上げていた。
「さっきのタルト、本当に美味しかったですね」
セラが足をぶらぶらさせながら言うと、ミネットも小さく頷いた。
「はい……。アッシュさん、優しいですよね」
「うん。思ってた以上に、すごく」
セラの顔がじわりと赤くなる。
ミネットはその変化を見逃さず、そっと首を傾げた。
「あの……セラさん」
「ん?」
「もしかして、アッシュさんのこと……」
言い終える前に、セラの耳まで真っ赤に染まった。
翠の髪がさらりと揺れ、翡翠色の瞳が泳ぐ。
「え、えっと……その……」
慌てて両手を振るが、その仕草がかえって分かりやすい。
ミネットはふっと微笑を浮かべた。
「素敵ですね」
「……ミネットさんは、違うんですか?」
恐る恐る問い返すと、ミネットは少し考えてから、ゆっくり首を横に振った。
「私は……お兄様みたいだな、って思ってます。怖い時に守ってくれて、安心する感じで。たぶん、恋とは違うと思います」
その言葉には迷いがなく、穏やかな温度があった。
家族を思い出すような、柔らかい笑みを浮かべている。
「そっか」
セラは胸の奥でほっと小さく息を吐いた。
安堵と同時に、くすぐったいような恥ずかしさが込み上げる。
「……が、頑張ります」
「ふふ。応援してます」
ミネットがそう言って笑った時だった。
「よう」
低い声が風に紛れて背後から届いた。
二人が振り返ると、濃紺の学園制服に身を包んだジグラット=エルステリアが立っていた。
淡金の髪が初夏の光を受けてささやかに輝き、深蒼の瞳が二人を静かに見下ろしている。
セラはぱっと立ち上がり、嬉しそうに手を振った。
「ジグラット先輩。こんにちは」
「ああ」
短く返しながら、ジグラットは二人との距離を測るように一歩近づく。
──ちょうどいいところにいたな。
朝のうちに食堂の調理担当から「新作菓子の試作会をやる」と聞いていた。
昼食後に裏手でひっそりと行われると知り、狙うタイミングを計っていたところだった。
裏庭でセラとミネットの姿を見かけたのは偶然だが、これ以上ない好機でもある。
「食堂の裏で新作菓子の試食をやっているみたいだな」
何気ない口調で告げると、セラの耳が勢いよく立ち、翡翠の瞳がきらりと光った。
「本当ですか!」
「ああ。今ならまだ人も少ない」
「行きましょう、ミネットさん!」
セラはベンチから飛び降りると、その勢いのままミネットの手を取った。
引かれたミネットは一瞬戸惑い、視線をジグラットへと向ける。
──ジグラット先輩……。
ティアナの言葉が蘇る。
『あの人、昔から悪い噂が多いの』
『食べ物につられて近づくのは危ないわよ』
胸の奥で小さな警鐘が鳴った。
けれど同時に、別の日の記憶も浮かぶ。
怯えていた自分に、お菓子を差し出してくれたときの穏やかな声。
押し付けがましくもなく、ただ静かに気遣うような眼差し。
──どっちが本当なんだろう。
警戒心と好意の間で揺れながら、ミネットは胸元の《癒輝珠》をそっと握った。
セラに手を引かれるまま、三人で食堂の裏へと向かう。
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