第10話「小さな感謝と揺れる視線」

挿絵画像:https://kakuyomu.jp/users/rikkues/news/822139841709543174


 生徒誘拐事件から数日が過ぎた。

 学園は表向き、いつもと変わらない日常を取り戻したかのように見える。

 けれどところどころに残るざわめきと噂話が、ついこの前まで続いていた不穏を物語っていた。


 午前の授業が終わり、短い休憩時間。

 アッシュは中庭の花壇の縁に腰を下ろし、手にした果物へと歯を立てた。

 春の陽光が石畳を柔らかく照らし、風が花々の香りを運んでくる。

 剣の柄ではなく、果物の皮の滑りを確かめるようなこうした時間は、最近の彼にとって貴重な「隙間」だった。


 木陰から小さな足音が近づいてくる。

 控えめで、逃げ腰の小動物のようなリズムだった。


「……あ、あの、アッシュさん」


 掠れた声に顔を上げると、ミネットが何かを抱えて立ち尽くしていた。

 ミルクティー色の髪を肩の上で結い、もふもふの狐耳が緊張でぴんと立っている。

 琥珀色の瞳は落ち着きなく揺れ、尻尾の二房が控えめに左右へ揺れていた。


「ミネット」


 アッシュは口元を緩めて手を振った。


「どうした、授業はもういいのか」

「は、はい。次の前に少しだけ時間があるので……」


 ミネットはきゅっと唇を結び、こちらへと歩み寄ってくる。

 そして花壇の縁から半歩離れたところでぺこりと頭を下げた。二股の尻尾が緊張でぎこちなく揺れる。


「その、この前は……本当にありがとうございました」


 小さな声だが、その言葉には震えと本気が宿っていた。

 あの廃教会での恐怖がまだ肌の下で冷えたままなのだろう。


「いや」


 アッシュは慌てて立ち上がり、手を振った。


「俺は当然のことをしただけだよ。ミネットが戻って来られて、本当に良かった」

「……とても怖かったんです。何も見えない夢の中に閉じ込められて、誰も呼べなくて……。でも、アッシュさんたちの声が聞こえた時、本当に……」


 ミネットは胸元を押さえる。

 思い出した瞬間、耳がしゅんと伏せられた。

 アッシュはその様子を見て、言葉を少し選んだ。


「もうあんな真似はさせない。学園の中で、ああいうことが起こるべきじゃないからな」

「……はい」


 短く答えたミネットは、ぎゅっと拳を握りしめると、胸元の小さな巾着袋を取り出した。


「あの……これ、お礼です」


 彼女は両手で大事そうに巾着を差し出す。


「手作りの魔除けチャームなんです。治癒術の魔力を少しだけ込めてあるので、怪我をした時に回復を早めてくれる……はずです。えっと、魔除けの効果も、ちょっとだけ」


 巾着から取り出されたのは、小さな青い宝石が埋め込まれた銀色のチャームだった。

 狐の尾を模したような曲線と、簡素ながら丁寧な銀線細工。陽光を受けると、青い石が淡く光を返す。


「自分で作ったのか」

「はい。寮でこつこつと……こういう細かい作業、わたし好きなんです」


 ミネットは恥ずかしそうに視線を逸らし、狐耳が小さく震えた。


「こんなものしか作れなくて……。でも、気持ちだけでも受け取ってもらえたら」


 アッシュはチャームを手のひらに載せる。

 指先に伝わってくるのは、金属の冷たさではなく、何か微かな温もりだった。

 治癒術の魔力と、作り手の感情が薄く残っているのだろう。


「ありがとう、ミネット」


 彼は慎重に紐を持ち上げ、光に透かしてみる。


「大事にする。こういうのをもらうの、実は初めてなんだ」

「ほ、本当ですか?」

「ああ。村では誰かを助けても『ありがとな』で終わりだからな。飾りなんてもらったことがない」


 照れ隠しのように笑うと、ミネットの顔がぱっと花開いたように明るくなる。

 狐耳がぴんと立ち、二股の尻尾がわかりやすくふりふりと揺れた。


「よかった……。あの、アッシュさんって……お兄様みたいだなぁって、思ってて……えへへ」

「兄、か」


 アッシュは頬を掻いた。


「俺、一人っ子なんだよな。そう言われるの、ちょっと不思議だ」

「でも、優しいですから。きっと良いお兄様になれると思います」


 言い切る声には信頼の色が混ざっていた。

 ミネットは深く一礼すると、両手を胸元で組む。


「では、授業がありますので……。また今度、お話しさせてください」

「ああ、いつでも捕まえに来てくれていいぞ」

「……はいっ」


 ミネットはたどたどしい足取りで、しかしどこか弾むように駆けていった。

 二房の尾が階段手前でひときわ高く跳ねる。

 その背中を見送りながら、アッシュは手の中のチャームを見つめた。


 ──お兄様、か。


 自分には背中を預ける家族はいない。

 けれど誰かに「そう思える」と言ってもらえたことが、思いのほか胸に染みてくる。


 その時、花壇の向こうからじっとした視線を感じた。

 顔を上げると、淡いミントグリーンの長髪を揺らす少女が、木陰に腕を組んで立っている。


 ティアナ=ミューミル。幼馴染であり、弓兵として共に戦う仲間。

 濃いエメラルドグリーンの瞳が、じっとこちらを観察するように光っていた。


「ティアナ」


 呼びかけると、彼女はわずかに肩を揺らし、視線を逸らす。


「……別に。ただ通りかかっただけ」


 それだけ言い残し、くるりと踵を返した。

 長い耳飾りが夕光を受けてチラリと光り、彼女の背中はすぐに角を曲がって見えなくなる。

 アッシュは小さく首を傾げた。


(何か機嫌を損ねるようなことしたか、俺)


 チャイムの音が疑問を途中で断ち切った。

 彼はチャームをそっとポーチにしまい、教室へと駆け出した。


 ◇ ◇ ◇


 昼食時。

 学園の大食堂はいつものようにざわめきと食器の音に満ちていた。

 長テーブルの上に並ぶ料理は、演習続きの生徒たちの食欲を満たすためか、いつもより肉の皿が多い。


 アッシュは窓際の一角に腰を下ろしていた。

 隣にはティアナ、向かいにはセラとミネット、その隣にソフィアが座っている。

 小さな輪になった四人に囲まれ、彼のトレイには肉と野菜とパンが整然と並んでいた。


「うわ、このお肉すっごく柔らかいです」


 セラが嬉しそうにナイフを動かし、一口を頬張る。

 翠緑の長髪がさらりと揺れ、翡翠色の瞳がきらりと輝いた。


「森の鹿肉とはまた違った美味しさですね。脂の香りが……んー、幸せぇ♡」

「学園の食堂って、贅沢ですよね」


 ミネットは両手でスプーンを支え、控えめに野菜スープを口に運ぶ。

 狐耳がふわりと揺れ、尻尾が椅子の後ろでほんの少しだけ動いた。


「それだけ幸せそうに食べてもらえたら、調理場の人もきっと喜ぶわ」


 ソフィアは涼しげな声でそう言うと、自分の皿の魚料理へとフォークを伸ばす。

 白銀のロングヘアが肩で揺れ、蒼く深い双眸が静かに料理を吟味していた。


「それならWin-Winってやつですね!」


 セラは肉をもう一口運び、思い出したように続けた。


「あっ、でも、この前ジグラット先輩におごってもらった肉パイも、すっごく美味しかったんですよ」


 その一言で、テーブルの周囲の空気がわずかに硬くなった。


「ジグラット先輩に」


 アッシュのフォークが途中で止まり、微妙な位置で宙ぶらりんになる。

 隣でナイフを持つティアナの指先に、わずかに力がこもったのが、手元越しにも伝わってきた。


「うん。廊下で偶然会った時に、『腹は減っていないか』って聞かれて」


 セラは無邪気に続ける。


「それで、寮の近くの屋台の肉パイを買ってくれたんです。あそこのも癖になりそうなぐらい美味しくって!」

「そういえば私も、お菓子を……」


 ミネットが小さな声で続けた。


「寮の前で偶然お会いして。その時、差し入れだって……」

「へえ、そうなんだ」


 アッシュは努めて穏やかな声を出して皿に視線を戻したが、隣からカツンという小さな音が聞こえた。

 ティアナのナイフが皿の縁に強く当たった音だ。


「……ふーん」


 短く漏らした声にはわずかな棘が混じっていた。

 セラはそれに気づかず、肉をもぐもぐと咀嚼する。


「ジグラット先輩って、意外と優しいんですよね。模擬戦の時も、指示が的確だったって評判でしたし」

「私も……怖い人かと思ってましたけど、実際にお話ししてみたら、そんなことなかったです」


 ミネットが控えめに微笑むと、狐耳がほっとしたように下がった。


 ティアナの手にさらに力がこもる。

 ナイフの切っ先が肉の表面を必要以上に押し潰し、じゅっと肉汁が皿に広がった。


 ──やっぱりあの人、下級生にまでちょっかいかけてるじゃない。


 心の奥で、苛立ちが静かに膨らんでいく。


 ジグラット=エルステリア。

 王都から遠い森族の集落にまで悪名が届いていた、問題児の第二王子。

 権力を笠に着た振る舞い、宴席での傲慢、つまらない嫌がらせ――それが噂を耳にしていた彼に対するティアナの印象だった。


 そんな男が幼馴染のそばをうろつき、純粋そうな同級生達に笑顔を向けている。

 どうしてもそれが気に入らない。


「ティアナ、何か気になることでもあるの」


 ソフィアの視線が横から静かに刺さる。

 白銀のまつげの陰で、蒼い瞳が僅かに細められていた。


「……別に」


 ティアナは皿から目を上げずに答えた。


「そう」


 それ以上問わないソフィアの声は、無関心のようでいて、どこか観察者の冷静さを含んでいる。

 アッシュは彼女たちのやり取りを見比べ、肩をすくめた。


「なんか……雰囲気、悪くなってないか」

「大丈夫ですよ、アッシュさん。いつものことです」


 セラが明るい声で間に入る。

 翡翠色の瞳には、本当に深刻には受け止めていない様子が浮かんでいた。


「そ、そうなんですね……」


 ミネットもおずおずと頷く。

 彼女の狐耳は不安げに伏せられ、尻尾の動きも小さくなっていた。


 それでも食事は続いていく。

 皿が空いていく音と、周囲の賑やかなおしゃべり。

 その中でティアナだけが最後まで黙々とナイフとフォークを動かし続けた。

 胸の奥のざわめきは、肉と一緒に噛み砕いても決して消えてはくれなかった。


 ◇ ◇ ◇


 放課後。

 学園寮近くの中庭は夕焼け色に染まりつつあった。

 窓からこぼれる灯りがひとつ、またひとつと増え、石畳に長い影を落とす。


 セラとミネットは並んで寮へと向かっていた。

 今日の授業で出された課題や、明日の実技の話――他愛ない会話が途切れなく続いている。


「今日の魔術理論、やっぱり難しかったですね」


 ミネットが小さく息を吐く。

 手元には使い込まれたノートが抱えられていた。


「うん。でも、ちゃんと整理すれば大丈夫だよ」


 セラは明るく笑ってみせる。


「部屋に戻ったら一緒に復習しよ。光の屈折の図とか、森の例えに変えたら覚えやすいかもしれないし」

「はい、お願いします」


 二人が寮の入口に差し掛かったその時――背後から低めの声が飛んできた。


「あんたたちさ」


 振り返ると、腕を組んだティアナが立っていた。

 夕陽を受けるミントグリーンの長髪が風に揺れる。

 濃いエメラルドグリーンの瞳が、まっすぐ二人を見据えていた。


「ティアナさん?」


 セラが首を傾げる。

 いつもよりも表情が硬いのを感じ取ったのか、ミネットは半歩セラの陰に身を寄せた。


 ティアナは一歩近づき、腕を組み直す。


「お昼にさ、ジグラット王子から何かもらったって言ってたでしょ」


 その声には隠しきれない警戒の色が混じっていた。


「え、うん。肉パイ」


 セラは悪びれもせず頷く。


「すっごくおいしかったですよ。あの、屋台のですよね。あの時も、訓練でお腹空いてたから助かりました」

「わ、私はお菓子を……」


 ミネットが小さく続けた。狐耳が不安げに伏せられる。

 ティアナは眉をひそめる。


「あの人、昔から悪い噂が多いの」


 二人の表情が固まる。

 ティアナは言葉を選ぶ間も惜しむように続けた。


「権力を振りかざして平民を泣かせたとか、商人に無茶苦茶な条件を飲ませたとか……細かい話はどこまで本当かわからない。でも、そういう話が山ほどあるのは事実よ」


 視線をセラへと移す。


「……だから食べ物につられて近づくのは危ないわよ。特に、あんたたちみたいに顔に全部出るタイプはね」


 セラは「顔に出る」と言われて、思わず頬を押さえた。


「え、わ、私そんなに単純そうに見えますか」

「見える」


 即答だった。

 ミネットは慌てて首を振る。


「セラさんは純粋で、素敵です!」

「ほらね」


 ティアナは肩をすくめる。


「純粋なのは悪いことじゃないけど、そのぶん騙されやすいってこと。ジグラット王子は、あんたたちが思ってるよりずっと厄介だと思う」


 そしてミネットへと視線を移した。


「ミネット。あんたも素直すぎるから、気をつけて」

「……はい。気をつけます」


 ミネットは小さく頷いた。

 狐耳がぴんと立ち、尻尾がぎゅっと縮こまる。

 ティアナはその様子を一瞥し、ふっと息を吐く。


「じゃ、言いたいことは言ったから。またね」


 そう言い残し、寮とは反対側の道へと歩き出した。

 陽が沈む方角へ向かうシルエットが、長く伸びていく。


 ──絶対に気を抜かせない。


 足音のリズムに合わせて、ティアナの心の中で決意が固まっていく。


 セラとミネットは純粋だ。だからこそ悪意に鈍感だ。

 そんな二人を危ない橋に渡らせるわけにはいかない。


 ジグラット=エルステリア。

 あの男の名前が胸の奥で重く引っかかったまま、消えてくれない。


(あの人、何を企んでるんだろう)


 森族の村で耳にした王都の噂。

 学園で見た冷静な采配。

 セラやミネットに向けた、さりげない親切。


 どれも断片でしかないのに、繋ぎ合わせると一つの輪郭が浮かび上がる。

 笑顔の裏に、別の目的を隠しているような――そんな影が。


(アッシュも……気をつけてほしいけど)


 幼馴染の顔が頭に浮かぶ。

 困っている人間を放っておけない、優しすぎる笑顔。

 ティアナは拳を握り締めた。


(私が見張らないと)


 夕陽が沈みかける中庭を一人歩き続けた。

 空は茜から紫へと、ゆっくりと色を変えていく。


 ◇ ◇ ◇


 その頃、寮の入口で足を止めたセラとミネットは顔を見合わせていた。


「ティアナさん、すごく心配してくれてるんだね」


 セラは困ったような、それでいて少し嬉しそうな笑みを浮かべる。


「言い方はちょっときついけど……。私たちのこと、ちゃんと見てくれてるんだと思う」

「……はい」


 ミネットはこくりと頷いた。

 けれどその琥珀色の瞳には、うっすらと影が差している。


 ジグラット先輩は、本当に悪い人なのだろうか。

 お菓子を差し出してきた時の瞳は、ただの優しい上級生のものに見えた。

 威圧的な口調はなく、むしろ少しだけ気遣いすら感じられた気がする。


 ──でも、噂が本当なら。


 ミネットは胸元の《癒輝珠》をぎゅっと握りしめた。

 アッシュさんは、自分を助けてくれた頼もしい“お兄様”のような人。

 ティアナさんは、口は辛口でも仲間の危険には誰よりも敏い。


 そんな二人のことを思うと──自分だけが何も考えずジグラット先輩に近づいていいのだろうか。

 

「ミネット、大丈夫?」


 セラがそっと覗き込む。

 彼女の瞳には純粋な心配の色があった。


「はい。大丈夫です」


 ミネットは笑顔を作り、耳をぴんと立てる。


「そっか。じゃあ、部屋に戻ろっか」

「はい」


 セラはそう言って彼女の肩を軽く叩き、寮の扉を押し開ける。

 廊下に差し込む夕陽が床を朱く染め、二人分の影が奥へと伸びていった。


 ◇ ◇ ◇


 夜。

 ティアナは自室の窓辺に立ち、夜空へと視線を投げていた。

 森の夜と違い、街の灯りが星の数を少しだけ減らしている。それでも遠くに瞬く光は確かにそこにあった。


 彼女は弓を手に取り、弦を指で弾く。

 ぴん、と張り詰めた音が静寂を裂き、一瞬で空気の温度を変える。


 ──もっと注意深く見ないと。


 窓の外には学園の建物のシルエット。

 そのどこかで、第二王子もまた夜を過ごしているのだろう。


 模擬戦で見せたあの冷静無比な指揮。そして下級生へ向けられた、さりげない親切。

 それらには一貫した「目的」があるように思えた。


 下級生を懐柔し、信頼を得て、悪評を薄める。

 王族としての印象を塗り替え、自分の立場を強くする。

 ……そう仮定するなら、彼の行動はどれも辻褄が合う。


 けれどそれだけでは終わらない何かを、ティアナの勘は告げていた。


(頭がいいのは認めるけど。あの人の優しさは、全部計算の上って感じがする……)


 もっと深い場所に何かを隠している。

 弓をそっと壁に立てかけ、ティアナはベッドに身を投げ出した。

 天井の木目をぼんやりと見つめながら、ぽつりと呟く。


「……アッシュ、気をつけてよ」


 幼馴染の横顔が瞼の裏に浮かぶ。

 誰かのために傷だらけになっても、笑って「当然だ」と言ってしまう優しさ。

 そんな彼がもし第二王子に「利用される」側に回ることになったら――想像するだけで、胸の奥がざらついた。


 目を閉じると、耳の奥で弦の音が反響する。

 張り詰めた一本の線が、心の中で静かに震えていた。

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