第9話「夢幻の仮面事件」前編
挿絵画像:https://kakuyomu.jp/users/rikkues/news/822139841709446530
学園に不穏な空気が漂い始めたのは、春の終わりが近づいた頃だった。
朝露に濡れた芝生はいつも通り翠にきらめき、白亜の校舎には変わらぬ光が差し込んでいる。
だが教室の一角にはぽっかりと穴のような空席がいくつも生まれ、その空白がじわじわと生徒たちの胸に冷えを広げていた。
魔術科の優秀な生徒が一人、また一人と姿を消している。
ジグラット=エルステリアは図書館の高窓に寄りかかり、薄曇りの空を映す中庭を見下ろしていた。
背後では羊皮紙の擦れる音と、司書が本を整理するかすかな物音だけが響いている。
手元には数枚の羊皮紙。
そこには細かな筆致で、失踪者の名前と簡単なプロフィールが記されていた。
魔術科第二学年、レイム=バスク。聖属性強化魔術。
魔術科第三学年、エルナ=グラヴィス。高位治癒術。
魔術科第一学年、ニナ=ローデル。祝福詠唱。
すでに五人。全員が魔術科であり、全員が「治癒」や「聖属性」に秀でた女子生徒だった。
羊皮紙の端にジグラットは短く書き込む。
『共通点:聖女資質/補助特化』
指先に残るインクの感触を確かめるように、手を止めた。
──狙いは明確だな。
寮の部屋、人気のない講義室、礼拝堂の側廊。
失踪現場には例外なく淡い香りが残っていた。
そこまで強くはない、聖堂に入ったときのような独特な匂いだ。
加えて魔力に敏い者なら誰でも気づくほどの、幻術の残滓。
それはジグラットにとって覚えのある匂いでもある。
夜の路地裏で銀の仮面をつけた人物と対峙したとき、風に紛れて漂っていた匂いだ。
(少なくとも、同じ系統の魔術だろう)
あの「観察者」と今回の実行犯が同一かどうかはまだ断定できない。
だが背後に共通の組織があると見ておくべきだ。
「センパイ、調べ物ですか?」
背後から聞き慣れた明るい声が降ってきた。
ジグラットが振り返ると、フィノ=コレッティが数冊の本を抱えて立っていた。
焦げ茶のショートボブを揺らし、金と琥珀の瞳を好奇心で輝かせている。
「ああ。お前も来ていたのか」
「はい、調査隊の仕事で資料あさりです。古い地図とか、古文書とか。たまに変な呪いがかかってたりしてスリル満点なんですよね〜」
「それは……仕事の範疇、なのか?」
「もちろんですっ」
胸を張って言い切るが、その笑顔にほんの少しだけ陰りが差した。
「でも、最近はちょっと……スリルの方向性が違うというか」
「失踪事件の噂か」
「やっぱり知ってましたか。魔術科の子たち、みんなピリピリしてます。『聖属性の強い子から消えてる』なんて話も流れてて」
フィノは抱えた本をテーブルに置き、窓の外をちらりと見やる。
「調査隊にも、それとなく『夜の巡回を強化しろ』って通達が出てるんですよね」
ジグラットは羊皮紙をさっと二つ折りにし、懐へと滑り込ませた。
「お前も、夜の一人歩きは避けておけ」
「むぅ……センパイの言いつけはちゃんと守りますけど」
フィノは唇を尖らせてから、いたずらっぽく笑った。
「でも、もし何かあっても、センパイが守ってくれますよね?」
冗談めかした声音。
だが、瞳の奥には確かな不安の影が揺れていた。
ジグラットはほんの一瞬だけ彼女を見つめ、それからごく当たり前のように答える。
「当然だ」
迷いのない響きに、フィノの表情がぱっと明るくなる。
「……はい。じゃあ安心しました。私、センパイの言葉けっこう信じちゃうタチなので」
「軽々しく信じるな」
「でも、センパイって嘘つかなそうですし?」
「……どうだかな」
口ではそう返しつつも、フィノの笑顔はもうすっかりいつもの調子に戻っていた。
「じゃあ、調べ物が終わったらまた報告に来ますね〜。センパイもあんまり根詰めすぎないでくださいよー」
軽く手を振り、フィノは本の山を抱えて閲覧席へと走っていく。
その背中が棚の影に消えたところで、ジグラットは再び羊皮紙を取り出した。
失踪者の共通点。聖女資質持ち。
だとすれば、その先に見えてくる影は一つだ。
──《聖鎖会》。そして、いずれはリアーナも。
指先で羊皮紙の端を軽く叩きながら、ジグラットは窓の外に目を細めた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、新たな失踪者が出た。
魔術科第一学年、ミネット=キャロル。
もふもふの狐耳を持つヒーラーで、治癒術に長けた少女だ。
アッシュは失踪現場となった女子寮の一室に駆けつけ、教官たちと共に中へ足を踏み入れていた。
二つ並んだベッド、勉強机、小さな衣装棚──生活の気配はそのまま残っているのに、片方のベッドだけがぽっかりと空白を晒している。
窓は内側から施錠され、扉にもこじ開けられた痕跡はない。
なのにそこにいるはずの少女だけが忽然と消えていた。
そして部屋の空気には淡い香りが漂っていた。
乾いたハーブと薄い香の煙が混じったような、どこか聖堂めいた静かな匂い。
深く吸い込めば、鼻の奥がじんわりと痺れるような香りだ。
「これは……」
アッシュが眉をひそめたそのとき、背後から冷ややかな声が響いた。
「幻術と精神干渉が複合しているわね。香りは媒介……高度な儀式系魔術だわ」
振り返ると、ドア口に白銀のロングヘアが揺れていた。
ソフィア=ノルディス。
雪のように白い肌、深い蒼の両眼。
銀白と群青を基調とした魔導装束が、狭い部屋の空気を一段冷たく変える。
彼女は掌に魔力を集め、空気中に残る魔力の揺らぎを探る。
蒼く深い双眸に、六芒星の魔紋が静かに浮かび上がった。
「ただの誘拐じゃないわ。心を眠らせて連れ出している。痕跡を極力残さないために」
「目的は何だと思う」
アッシュの問いに、ソフィアは視線だけを彼へ向けた。
「わからない。でも──この香り、前の現場でも報告があったはずよ。失踪者たちの共通点を洗えば、見えてくるはず」
その時、寮の廊下を駆け抜ける足音が近づき、勢いよく扉が開いた。
「ミネット……!」
翠緑の長髪を揺らし、セラ=アルカンが飛び込んでくる。
部屋の中を一目見た瞬間、その顔から血の気が引いた。
「セラ、お前も話を聞いたのか」
アッシュが声をかけると、セラは唇を強く噛みしめながら頷いた。
「はい……ミネットさん、私と同じ寮で、同じ部屋なんです。毎晩ここで一緒に……」
そこまで言って、言葉が喉で詰まる。
視線の先にはミネットのベッドがあった。
畳まれたままの寝間着、棚の上に置きっぱなしのブラシ、ふかふかの枕。
そのどれもが、今朝までそこに“彼女がいた”ことを雄弁に語っていた。
「昨夜も……灯りを落とす直前まで、おしゃべりしてたんです。遠征訓練どうだったとか、今度一緒に街へ行こうとか……いつもみたいに『おやすみ』って言って」
セラの拳が、ぎゅっと握り込まれる。
「なのに朝起きたら、ベッドが空で……荷物もそのままで……」
震える声が静かな部屋に落ちた。
「夜中に一度だけ目が覚めたんです。なんだか、いつもと違う匂いがして……。でも眠くて、そのまま寝ちゃって……あのとき、ちゃんと起きていれば……!」
乾いたハーブの匂い──アッシュが感じたものと、同じだ。
「セラ」
アッシュはそっと声をかける。
「お前のせいじゃない。こんなの、普通は気づけない」
セラは唇をきつく噛み、こくりと小さく頷いた。
それでも悔しさは隠しきれない。
「……だから、絶対に見つけます。ミネットさんは、私の大事なルームメイトです。あの子、怖がりなくせに人の傷を見たら絶対に放っておけないんです。そんな優しい子が、こんな目に遭うなんて許せません」
まっすぐな翡翠の瞳がアッシュを見据える。
「アッシュさん、一緒に探してください。私、弓でも剣でも、なんでもやりますから」
「ああ。必ず見つけよう」
アッシュが頷くと、セラの顔にわずかな光が戻った。
ソフィアが二人を見やり、静かにため息をつく。
「感情の昂ぶりも悪くはないわ。ただし、足は止めないこと。──まずは手がかりを洗い出すわよ」
「わかってます。冷静に行動します」
セラはぐっと胸に手を当て、深呼吸を一つした。
アッシュは改めて部屋を見渡す。
ミネットのベッド脇、枕元の台座には、彼女の
──昨夜まで一緒に笑っていた相手が、朝にはいない。
胸の奥に、遅れて重い怒りがじわりと広がる。
「行こう。ここに長居しても、犯人は喜ぶだけだ」
三人は部屋を後にし、廊下へと出た。
乾いたハーブと香の煙の匂いだけが、なおも薄く漂っていた。
◇ ◇ ◇
それから数時間、三人は学園中を駆け回った。
廊下、講義棟、礼拝堂。
ミネットと親しかった生徒や、彼女を最後に見たという証言者を見つけては聞き込みを続ける。
日が傾き始めた頃、ようやくわずかな糸口が見えてきた。
「《祈りの庭》の裏口で、仮面をつけた人影を見た……?」
アッシュが訊き返すと、小柄な魔術科の少年は不安げに頷いた。
「は、はい。夜更けに黒い外套を着た誰かが、ふらふらと歩いていくのを……」
「ふらふらと、ね」
ソフィアが指先で顎に触れて思案する。
「幻術を使い慣れているなら、姿を完全に消すこともできるはず。それをしないのは、自分の存在を『わざと匂わせている』から」
「つまり、罠か挑発ってことか」
「そう解釈するのが妥当ね」
三人は一度食堂に集まり、簡単なパンとスープで腹を満たした。
アッシュが買ってきたパンを自然な仕草で二つに割る。
「セラ、半分食べるか」
「えっ、いいんですか?」
「一人で全部食べるより、分けた方が美味いだろ」
「……やったぁ。アッシュさん、さりげなく優しいですねっ」
セラは嬉しそうにパンを齧り、頬をほころばせた。
ソフィアは隣の席からその様子を眺め、ふぅと小さく溜息をつく。
「……あなたたち、少しは緊張感を持ちなさい」
「ちゃんと持ってますよ。ほら、こうやってエネルギー補給して、元気に捜査を再開するんです」
「食べる言い訳に聞こえるのは私だけ?」
「そんなことないですよー。……ソフィアさんも、食べます?」
「遠慮しとくわ。でも……」
言葉を切ってから、ソフィアはほんの少しだけ柔らかく笑った。
「それくらいの余裕は、逆に悪くないのかもしれないわね」
セラはパンを噛みながら、アッシュの横顔を盗み見る。
(アッシュさんって、思っていたよりもちゃんと周りを見てるんだなぁ)
ささいな気配り。
それが胸の奥に小さな火を灯し、気づかぬうちにじわじわと広がっていく。
◇ ◇ ◇
一方その頃、学園裏手の資材置き場では別の会話が交わされていた。
簡素な木造小屋の影に、ジグラットとミレイユ=ハーヴィスが並んで立っている。
ミレイユは腰の工具箱を弄りながら、油汚れのついた指先で羊皮紙を広げた。
「殿下、失踪者のデータを整理しました」
そこには五人の生徒の名前と、詳細な魔力属性がびっしりと書き込まれている。
「全員、聖属性か癒し系統に偏った資質持ちです。いわゆる聖女系統の素養がある者達かと」
「やはりそうか」
ジグラットは腕を組み、羊皮紙に目を走らせる。
ミレイユは小さく息を吐き、もう一枚の紙を取り出した。
「それと、闇市場ルートを辿った結果です。怪しい魔具と人身売買の噂を追いかけていったところ、郊外の廃教会が黒幕の潜伏先である可能性が出てきました」
「確度は」
「六割前後。それと他に有力な候補はありません」
ミレイユは淡々と答える。
「勇者候補側の動きは?」
「アッシュとソフィアは聞き込みを進めています。セラも同行中。廃教会方面の噂に辿り着くのも時間の問題でしょう」
ジグラットの瞳が冷たい光を帯びた。
──なら、表舞台は勇者たちに任せる。
勇者ルートの「事件」を潰してしまえば、アッシュの成長チャンスを削ぐことになる。
ここで完全に手柄を奪うのは得策ではない。
むしろ勇者たちに表の栄光を与えたうえで、裏の「本当の情報」だけを掠め取る方が効率がいい。
「ならそのまま任せよう。俺たちは裏で情報を回収する」
「了解しました」
ミレイユが静かに頷く。
そこで木箱の陰からひょいと顔を出す影があった。
「センパーイ、私も混ざっていいですか〜♪」
「……いつからいた」
「最初から、です」
フィノが悪びれもせず笑う。
「盗み聞きは調査隊の基本スキルですよ? むしろ聞かせる気でしたよね、センパイ?」
「どこまで図々しくなる気だお前は」
「センパイ相手には遠慮しない方向で成長中です♪」
フィノはけろりと言い切った。
ジグラットは小さく溜息をつき、それから彼女を見据える。
「なら命じる。お前はアッシュ達の動きを監視しろ。あいつらが廃教会に辿り着いたら、すぐに知らせるんだ」
「了解です、センパイ」
右手をぴしっと上げ、敬礼ともポーズともつかない動きをしてみせる。
「あっ、もしアッシュさんたちが困ってたら、ちょっとくらい手助けしてもいいですか?」
「必要最低限にしておけ。主役はあくまで奴らだ」
「はーい」
フィノは軽い足取りで駆け出していった。
ミレイユがその後ろ姿を見送りながら、小声で呟く。
「……フィノさんはだいぶ殿下に懐いていますね」
「扱いやすい、とは違うがな」
ジグラットは肩をすくめ、それでもわずかに口元を緩めた。
「だが、悪くない駒だ」
◇ ◇ ◇
翌日。
アッシュたちがたどり着いたのは、学園から西へ二時間ほど離れた丘の上だった。
そこに建つ石造りの古い教会は今や蔦と苔に覆われ、窓ガラスは割れ、扉も軋んでしまっている。
朽ちた十字架が傾き、長く放置されてきたことを物語っていた。
「ここが……」
アッシュは剣の柄に手を添え、慎重に一歩踏み出す。
ソフィアは無言で周囲の魔力の流れを探り、セラは弓をいつでも引けるように構えを調整している。
扉を押し開けると、冷えた空気が一気に流れ出た。
内部は薄暗く、割れた窓から差し込む光が埃の粒を浮かび上がらせている。
朽ちた長椅子が並び、ひび割れた石床には孤独な足音だけが響いた。
かつて祈りが満ちていたであろう祭壇には、今は亀裂の入った古い像がひっそりと佇んでいる。
「誰もいないように見えるけど……」
セラが囁いたその瞬間。
「来たか、勇者候補よ」
低く掠れた声が礼拝堂の奥から響いた。
月明かりが割れたステンドグラス越しに差し込み、その光の中に黒い外套の人影が浮かび上がる。
銀色の仮面が顔全体を覆い、わずかな光を鈍い輝きに変えていた。
アッシュは即座に剣を抜き、構える。
「お前が魔術科の生徒たちをさらった犯人か」
「犯人、か」
仮面の人物は鼻で笑った。
「私はただ、試練を与えているだけだ。選ばれし資質ある者たちに、神の視線に晒されることこそ真の救いだと教えている」
その言葉にソフィアの眉がぴくりと動いた。
「ふざけた言い分ね」
「ふざけてはいないさ」
仮面がこちらを向く。
視線は見えないはずなのに、背筋に冷たいものが走る。
「魂は本来、視線のもとで縛られるべきものだ。悔い改め、恐れ続けることでしか救われない。
故に君たちにも同じ試練を与えよう。自らの望みと向き合い、真に為すべきことを悟るがいい」
仮面の奥で、笑い声がくぐもって響く。
「恐れるな……これは救いだ。神の視線の前では、誰もが裸の魂になる」
言葉が終わる前に、空気が急激に歪んだ。
淡い光が三人を包み込み、意識が足元から引き剥がされるような感覚に襲われる。
視界が白く弾け、音が消える。
そして――世界が変わった。
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