第7話「新学期の火種──後輩と先輩と、それぞれの選択」前編

挿絵画像:https://kakuyomu.jp/users/rikkues/news/822139841709368783


 朝日が斜めに差し込み、教室の窓ガラスを淡い金に染めていた。

 新入生用の教室はその光を受けてざわめきに揺れている。


 机と机の間を行き交う噂話。

 軋む椅子の音。

 油の匂いのする武器用オイルと、真新しい羊皮紙の匂いが混じり合い、どこか落ち着かない空気を形づくっていた。


 アッシュは自分の席に腰を下ろし、よく使い込まれた剣を膝の上に置いていた。

 布で刃を丁寧に拭いながら、耳だけを周囲の会話へと向ける。


 隣の席ではティアナ=ミューミルが弓の弦を指で弾き、張り具合を確かめている。

 淡いミントグリーンの長い髪が肩越しに流れ、朝日を受けて薄く透けた。

 濃いエメラルドグリーンの瞳はいつものように冷静で、少しだけ他人との間に境界線を引いたような光を宿している。


「ねえ、聞いた? 第二王子の評判、ちょっと変わってきてるらしいわよ」


 前の席の女子生徒が、友人に顔を寄せて囁いた。

 アッシュの指先がほんのわずかに止まる。


「ああ、模擬戦の指揮がすごかったって話でしょ」

「そうそう。冷静で的確だったって。意外と面倒見もいいらしいし」

「でもさ、何考えてるか分かんないって声も多いよね」

「まあ、王族だし。あんな人に簡単に近づけるわけないでしょ」


 ジグラット=エルステリア。

 問題児の第二王子──そういう噂で、入学前から名前だけはよく聞いていた人物だ。


 模擬戦の日。

 指揮官席から全体を見渡し、必要なときだけ前へ出て剣を振るう姿は、噂に聞いていた横柄な王子像とは少し違っていた。


(へえ……。やっぱりあの時のこと、結構広まってるんだな)


 アッシュは刃先を光にかざしながら、心の中でそう呟いた。

 そこに嫉妬はない。

「自分には関係のない、上の世界の人間」の話として、どこか他人事のように受け止めていた。


「アッシュ、何ぼーっとしてんの」


 少しだけ呆れを含んだ声が隣から降ってくる。

 ティアナだ。


「ああ、悪い。今の第二王子の話……ジグラット王子のことだろ。ちょっと気になってさ」

「ふうん。あたしはまだ信用する気になれないけどね。ああいうタイプ、得意じゃないの」


 ティアナは軽く鼻を鳴らし、弦から指を離す。

 弦が小さく震え、澄んだ音を立てた。


「そうかな」

「そうよ。冷静すぎる人って、何を考えてるのか分からないじゃない。顔色ひとつ変えないで、こっちが勝手に焦ってるのを眺めてる感じとか……」


 言外に「苦手」と書いてあるような口ぶりだ。

 敵視しているわけではないが、好意的でもない、そんな距離感。


 アッシュが苦笑しながら返事を探していると──

 ガラリ、と教室の扉が荒々しく開いた。


「よし、そこまでだ。おしゃべりは一旦やめろ」


 筋骨逞しい中年教官が入ってきて、教室のざわめきが潮を引くように静まっていく。

 黒髪にところどころ白いものが混じり、鋭い視線が生徒たちを一人ひとり測るようになぞっていく。


「今日は新学期最初の課題について告知する」


 教壇に立った教官の声が、教室の空気をきりりと引き締める。

 アッシュは背筋を伸ばし、手元の剣を鞘に収めた。


「上級生との合同実地演習を行う。経験の共有と、学年間の連携確認が目的だ。新入生はそれぞれ割り当てられた上級生の指揮下で動いてもらう」


 一瞬、教室がざわりと揺れた。

 机の間から小さな声が漏れ始める。


「上級生と一緒ってこと?」

「誰に当たるのかな……」

「生徒会の連中と一緒とかだったらやだなぁ」


 ティアナが横目でアッシュを見る。


「上級生と一緒、だってさ。どう思う?」

「腕の立つ人と組めたら、勉強にはなるだろ。……緊張もするけどな」


 正直な気持ちを口にすると、ティアナは小さく笑った。


「あんた、王族相手には固まって喋れなくなりそうだものね」

「そんなことは……多分、ないと思うけど」


 自信なく言い返すアッシュを見て、ティアナは肩をすくめた。

 教官はざわめきを一喝で押し返し、続ける。


「演習場所は学園西の《風牙の森》だ。魔物の巣が点在する危険地帯だが、教官と上級生が安全を確保した上で訓練を行う。だが油断するな。怪我人が出れば、その分こちらの評価は下がると思え」


 風牙の森──その名前を聞いた瞬間、教室のあちこちで息を呑む気配がした。

 アッシュの胸の奥にも小さな緊張が灯る。


(実戦に近い環境で、上級生の戦い方を間近で見られる……)


 怖さはある。

 だがそれ以上に、成長の機会だという実感が強かった。


「班の編成は昼休みに掲示板に張り出す。自分の名前と配置を確認しろ。それまでに、持っていく装備と道具の確認を済ませておけ」


 教官が告げると同時にチャイムが鳴る。

 授業終了の合図が教室に響き、張り詰めていた空気が一気にほどけた。


 ◇ ◇ ◇


 昼休み。

 学園の中央広場にある掲示板の前は、いつも以上の混雑を見せていた。


 紙を押しつぶすように生徒たちの肩がぶつかり合い、あちこちから名前を呼ぶ声が飛び交う。


「どいたどいた、あたしの名前はどこよっと……」

「第二小隊か。上級生は……うわ、生徒会だ」

「マジか、お前死んだな」

「やめろっての。縁起でもない」


 アッシュは人の流れを見極めながら、隙間を縫うように掲示板の前へと進み出た。

 並べられた羊皮紙の中から自分の名前を探す。


「……あった。第三小隊」


 指先でなぞるように行を追い、隊長の欄を見上げた。


『第三小隊

 隊長:ジグラット=エルステリア(三年)

 隊員:アッシュ(一年)、フィノ=コレッティ(一年)、セラ=アルカン(一年)、ほか上級生二名』


 小さな息が喉の奥から漏れた。


(ジグラット王子の隊……)


 背後からひょいと覗き込む影がある。


「ふむふむ。あたしは……第五小隊、ね」


 ティアナが自分の名前を見つけ、小さく頷いた。

 それからアッシュの側へ身を寄せ、掲示内容を覗き込む。


「アッシュは……あ、本当だ。第三小隊。ジグラット王子の隊長任務付き」

「うん」

「大丈夫? 王子様相手に緊張で噛みまくって指示聞き漏らしたりしない?」

「だから、そんなことは……ないと思う、多分」


 言葉の最後が少しだけ弱くなる。

 それを聞いたティアナは、ふっと口端を上げた。


「まあ、上級生の戦い方を見るにはちょうどいいんでしょ? 存分に観察してきなさいな。戻ったら根掘り葉掘り聞いてやるから」

「……わかった。その代わり、ティアナの隊の話も聞かせてくれよ」

「当然でしょ」


 小さないたずらっぽい笑みが返ってくる。

 そのやりとりに、アッシュの胸の緊張がほんの少しだけ和らいだ。


「あ、アッシュ君も第三小隊なんだ~♪」


 ぱっと明るい声が飛び込んできた。

 振り返ると、焦げ茶色のショートボブを揺らした少女が両手を振っている。


 フィノ=コレッティ。

 学園での調査隊の副隊長として紹介された少女。

 つい先日の模擬戦ではジグラットのチームに所属していた。


「フィノも第三小隊か」

「そうそう。センパイが隊長って聞いて、もう楽しみで楽しみで」

「センパイ……ジグラット殿下のこと?」


「うん。前の模擬戦でご一緒したんだけどね、すっごく頼りになるんだよ。指示が的確で、こっちが失敗しそうなところはきちんとフォローしてくれるし」


 フィノの目がきらきらと輝いた。


「冷たそうに見えるかもしれないけど、ちゃんと戦場全体を見ててくれるっていうか……私、ああいう人の下で戦うのは嫌いじゃないなぁ」


 その言葉には明らかな好意が滲んでいた。

 アッシュは曖昧に頷きながら、ほんの少しだけ胸の奥がざわつくのを感じる。


「そうなんだ」

「うんうん。アッシュ君は初めてだよね、センパイと組むの。きっと勉強になるよ。……あ、でも怒らせるとちょっと怖そうかも」


 フィノはそこで、くすっと悪戯っぽく笑った。


「気をつけるよ」

「ふふ。じゃ、また集合場所でね~」


 ひらひらと手を振りながら、人混みの中へと消えていく。

 その背中を見送りつつ、アッシュは心の中で呟いた。


(フィノ、随分と……親しそうだったな)


 だが、そこから先に何か具体的な感情が芽生えたわけではなかった。

 もやっとした違和感だけが、胸の奥に残る程度で。


 ◇ ◇ ◇


 翌日。

 朝の空気がまだ少し冷たい時間帯、学園の訓練場横に設けられた集合地点には、第三小隊のメンバーが徐々に集まりつつあった。


 森へ向かう石畳の道。

 その入り口に背を向けるようにして立つのは、濃紺の制服を纏った少年──ジグラット=エルステリアだ。


 淡金の髪はきっちりと整えられ、深蒼の瞳は氷のような静けさで隊員一人ひとりを見ていた。

 腰には王族に相応しい意匠が施された細剣。

 制服の襟元や袖口には金糸の刺繍が走り、ただそこにいるだけで空気が一段引き締まったように感じられる。


「全員揃ったようだな」


 低く、よく通る声が辺りに響いた。


 アッシュ、フィノ、セラ──そしてジグラットの後ろには、魔術科の上級生と弓兵の上級生が控えている。

 六人編成の小隊だ。


「今回の任務は風牙の森北西部の迂回ルートの偵察兼制圧だ」


 ジグラットは巻いた地図を片手に、簡潔に告げる。


「魔物の索敵、地形の確認、危険箇所の洗い出し。それと巣になっている場所があれば可能な範囲で殲滅する。最終的には本隊と指定地点で合流だ」


 淡々としているが、その声音にはわずかに熱がこもっていた。

 仕事としてではなく、自分の命運に直接関わる案件として受け止めている、その温度。


「各自の役割を確認する。アッシュ、前衛だ。索敵と初動の受け止めを頼む」

「はい」


 アッシュは無意識に背筋を伸ばす。

 一瞬、ジグラットの深蒼の瞳がこちらを射抜いた。

 その視線は厳しいが、敵意ではない。戦場を見る者の眼だ。


「セラ、弓での援護射撃。距離を保ち、敵の足を止めろ。森族の耳を活かして、音による索敵も頼む」

「了解です」


 セラ=アルカンは胸元で手を握り、小さく頷いた。

 長い翠緑の髪が背で揺れ、その翡翠色の瞳には期待と闘志が交じっている。


「フィノ」


 名を呼ばれた途端、彼女はぴしっと姿勢を正した。


「高速機動で敵後方の撹乱。接近して挑発、引きつけ、こちらの罠に誘導しろ。タイミングは俺の指示に従え」


「はーい、センパイ♪ 期待に応えてみせまーす」


 焦げ茶のショートボブが跳ね、フィノはにこりと笑った。

 軽口の調子はいつも通りだが、ジグラットの視線を受けると、瞳の奥がわずかに引き締まる。

 ジグラットは上級生二人に視線を移した。


「魔術科のお前は広域魔術と足止めを担当。無駄撃ちするな。弓兵のお前は中距離からアッシュとセラの死角を補え。自分たちの判断で構わないが、状況が変わったらすぐに報告しろ」


「承知しました」


 二人は同時に頭を下げる。


「迂回ルートは本隊のルートより足場が悪いが、その分敵の数は分散されているはずだ。地形を利用し、消耗を最低限に抑える。それが今回の方針だ。質問は」


 誰も口を開かない。

 フィノが一瞬手を挙げかけたが、ジグラットと目が合うと、ぱたりと下ろした。


「……ないようだな。では出発する。各自、警戒を怠るな」


 ジグラットが踵を返し、森へ続く道を歩み出す。

 第三小隊がその背中を追うように列を成した。


 ◇ ◇ ◇


 風牙の森は春だというのにどこかひやりとした空気に包まれていた。


 高く伸びた樹々の枝葉が陽光を遮り、地面にはまだ溶け切らない霜の痕跡が白く残っている。

 風が吹くたびに葉がささやき合うような音を立て、遠くではどこかの獣の咆哮が低く響いた。


 柔らかな土の上を踏みしめると、靴底が沈み込む感触がある。

 枝を踏まないように進めば、足音は驚くほど小さく抑えられた。


 アッシュは先頭で剣を腰に提げ、周囲の気配に神経を研ぎ澄ませる。

 後方からは弓を持つセラの足音が続き、そのさらに後ろでフィノの軽い足取りが上下していた。


 列の最後尾では弓兵の上級生が背後を警戒している。

 中央少し前に位置するジグラットは、手にした簡易地図と周囲の地形を交互に見比べていた。


「前方二十……いや、十五メートル。右側の茂みの奥に、魔物の気配がする」


 魔術科の上級生が低い声で告げる。

 感知魔法で察知したらしい。


 ジグラットは立ち止まり、短く指示を飛ばした。


「アッシュ、前に出ろ。正面から叩いて注意を引け。セラ、視界が開けた瞬間に援護射撃。フィノは右斜め後ろで予備として待機だ」

「了解」

「わかりました」

「はいはーい」


 三者三様の返事が重なり、アッシュが剣を抜いて前へ出る。

 剣身に森の淡い光が細く映った。


 次の瞬間──

 茂みが勢いよく割れ、灰色の毛皮を持つ狼型の魔物が飛び出してきた。

 黄色い目に飢えた光を宿し、唸り声とともにアッシュへ飛びかかる。


「くっ」


 アッシュは一歩踏み込んで、正面から剣を構える。

 重い体当たりを受け流すように刃を滑らせ、肩への噛みつきをかろうじて弾いた。


 臓腑に響くような衝撃が腕を伝ってくる。

 歯を食いしばり、踏みとどまる。


「セラ!」

「任せて!」


 セラの澄んだ声が飛ぶ。

 弦が鳴り、矢がまっすぐに飛翔した。

 矢羽根が空気を裂き、魔物の脇腹へ深々と突き刺さる。


 狼が短く悲鳴を上げ、態勢を崩した。

 その瞬間を逃さず、アッシュは踏み込みを一段深くする。


「はあっ!」


 剣が弧を描く。魔物の首筋を断ち切った。

 灰色の影が地面に崩れ落ち、血の匂いが鼻先をかすめる。


 そして一瞬の静寂が訪れる。

 森のざわめきだけが、再び耳へ戻ってきた。


「よくやった」


 少し後ろからジグラットの声が響く。

 アッシュは振り返り、肩で呼吸を整えながら軽く頭を下げた。


「ありがとうございます」

「ただ、今の一撃の後、体勢を立て直すのが遅い。二体目がいたら被弾していたぞ。斬り終わりの足の向きと重心の位置、あとで確認しておけ」


 指摘は厳しいが、的確だった。


「……はい。肝に銘じます」


 セラが駆け寄り、ぱっと顔を明るくする。


「アッシュくん、すごかったよ。あの一瞬で踏み込めるの、なかなかできないよ」

「いや、セラの矢がなかったら危なかった。ありがとな」

「えへへ、ふふん。もっと褒めてくれてもいいんだよ」


 おどけた調子で胸を張るセラの横から、フィノがぴょこっと顔を出した。


「ねーねー、二人とも盛り上がってるとこ悪いんだけどさぁ。後方警戒してた私の功績はどこ行ったのかな~?」

「ああ、ありがとうフィノ」

「よろしいっ。……でも本番はこれからだし、まだまだ働きますけどねっ」


 フィノが片目をつぶって笑う。

 三人のやりとりを横目に、ジグラットは再び前方へ視線を戻した。


「休憩は魔物の巣を一つ片づけてからだ。進むぞ」


 短く言い、隊長は先頭へ歩み出る。

 アッシュたちは互いに頷き合い、再び行軍を再開した。

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