第5話「学園内初の模擬戦──勇者の片鱗と悪役の計算」後編
挿絵画像:https://kakuyomu.jp/users/rikkues/news/822139841709309153
試合開始の号令と同時に、真っ先に動いたのはノワールだった。
黒猫の尾がゆっくりと横に揺れる。
紫苑色の瞳が掠れた声と同時に淡く光った。
「《夢霧結界》」
広場の空気がふわりと揺らぎを見せた。
薄い霧がじわりじわりと戦場全体に広がり、輪郭を曖昧にしていく。
霧そのものは色を持たない。だが視界の端がぼやけ、距離感が掴みにくくなった。
(視界と距離感の撹乱。命中率と索敵精度を下げるタイプの結界か)
足元を見れば、土の色はそのままだ。
それでもわずかに重くなった空気が、肺の奥まで入り込む感覚がある。
続けて、ソフィアが詠唱に入った。
彼女の掌に六枚の氷の花弁を重ねたような魔方陣が浮かび上がる。
その背後に、雪の結晶を巨大化させたような結晶陣が展開されていった。
「《氷華結界》」
冷気が、一気に広がった。
土の地面に薄く霜が降り、ところどころ白い筋が走る。
足裏からじわりと冷たさが伝わり、踏み出すたび、靴底がきゅっと鳴る。
「エリナ」
ジグラットの声に、紺の魔導衣の少女が即座に両手を掲げた。
「《光障壁》」
柔らかい光の幕がジグラットのチーム全体を包み込む。
氷結の影響がその一枚布の向こうで幾分か和らいだ。
そしてその瞬間には、すでにフィノが右側の死角へ滑り込んでいた。
「行ってきまーす、殿下」
軽い声と共に、フィノの姿がすっと霧の中へ溶ける。
小柄な身体が信じられないほどの速度で地面を滑っていくようだった。
「セラ、右側を!」
「うん!」
敵側で指示が飛ぶ。
セラが剣を抜き、フィノの進路に斜めから飛び込んだ。
金属音が弾ける。
一本、二本――素早い剣撃の応酬。
「やっぱり強いですね、セラさん」
「お喋りしてる暇は……ないんじゃないかなっ」
セラは剣を振り下ろした直後、素早く背の弓へ手を伸ばす。
矢をつがえ、ほとんどノータイムにも等しい速さで、間合いを取るフィノへ矢を放った。
フィノは身を捻り、地面を蹴って跳ねる。
矢はその髪をかすめ、霧の中へ消えた。
「っと、危な」
「チームA、小ポイント!」
審判の声が響く。
さきほどの斬り結びの中で、セラの剣がフィノの袖を浅く裂いていたらしい。
観客席が沸き立つ。
フィノは肩を押さえ、舌を出してひょいと後方へ跳んだ。
「痛っ。早いなぁ……」
嘆いてみせるが、その目の色はまだ遊び半分といったところだ。
その一連の流れとは別に、正面ではレティシアが動いていた。
白銀の髪が一本の軌跡となって走る。
鞘から解き放たれた《緋銀》が空気を裂いた。
「《緋銀一閃》」
抜刀と同時に放たれた高速の斬撃が、敵前衛へと吸い込まれる。
そこでティアナが前へ出た。
「っ――!」
彼女は咄嗟に弓を捨て、腰の短剣を抜いて受けに回る。
風精霊の加護を受けた身体が、ぎりぎりのところで斬撃の軌道を逸らした。
「させない!」
そして今度はアッシュが代わるように一歩、前に出た。
その動きは派手でも洗練されているわけでもない。
けれど迷いはなかった。
迷いがないからこそ、一歩が速い。
即座に振り下ろされるレティシアの次の斬撃を、アッシュの剣が真正面から受け止めた。
衝撃が土を打ち、靴底の下で砂が跳ねる。
「くっ……!」
レティシアの氷青の瞳に、一瞬だけ驚きの色が走る。
だが、彼女もすぐに次の一手へ移っていた。
体重を半歩ずらして、剣の角度を変える。
アッシュの肩口を狙った斜めの一撃が、彼の防御の綻びを正確に撫でた。
「チームB、小ポイント!」
審判の声が響く。
観客席の歓声が再び渦を巻いた。
アッシュは僅かによろめき、すぐに足を踏み換える。
脇腹を浅く斬られた箇所を左手で押さえながらも、剣は決して下ろさない。
(……やるな)
ジグラットは内心でそう呟いた。
開始からおよそ十分が経過している。
両チームのポイントは、魔導掲示板の上でほぼ並んでいた。
どちらも決定打に欠けるが、小ポイントを取り合うじりじりとした展開となる。
(夢霧結界と氷華結界の二重結界の影響で、こちらの細かい動きが制限されてしまうな)
ノワールとソフィアの連携が地味だが効いている。
視界が歪み、足場が悪くなることで、レティシアとフィノの機動力が十分に発揮できていない。
だが――こちら側にも、まだ切っていない札が残っている。
「ミレイユ」
短く名を呼ぶ。
ミレイユは頷き、手元の小型装置に魔力を流し込んだ。
彼女が事前に仕掛けていた陣が戦場の左右で淡く浮かび上がる。
「やれ」
ジグラットが合図を送ると、ミレイユの指が軽く弾かれた。
「《重力束縛陣》、展開」
戦場の左右――ちょうどセラとソフィアの足元に、複雑な魔術紋の輪がぽん、と浮かび上がる。
「っ、足が……」
「……重い?」
二人の動きが、一瞬だけ鈍った。
地面に縫い留められたように、脚が思うように上がらない。
その瞬間をレティシアが見逃すはずもなかった。
白銀の軌跡が鋭く走り、セラの肩口を浅く切り裂く。
「チームB、小ポイント!」
審判の声。
客席からの歓声が、今度はジグラットたちの側へ傾いた。
ソフィアはすぐに魔力で拘束を破り、周囲の温度を一段と下げて反撃に出る。
だが、その前にエリナが結界を重ねていた。
「《七宝結界》」
七重に折り重なった光の盾が氷の魔力を弾き、削り、拡散させる。
半減された氷結の衝撃がジグラットたちの足元へと届いた。
アッシュは周囲を見渡し、仲間の位置とジグラットの動きを一瞬で把握しているようだった。
傷を負いながらも、彼の表情に焦りはない。
(冷静だな。挑発には乗らず、仲間のフォローを優先している)
ジグラットがそう評価を下したところで――
霧の中から、ノワールの薄い声が漏れた。
「《黒猫の囁き》」
夢界魔術。
霧に紛れて、敵の精神をかき乱す囁きが放たれる。
狙いは後衛の要――リアーナだった。
淡い光を纏う彼女の瞳が、一瞬だけ虚空を見つめるように揺れる。
耳元で誰かが囁いたような、微かな身じろぎ。
その一瞬の隙をソフィアは見逃さない。
「《氷柱連陣》」
詠唱と共に、透明な氷柱が連続してリアーナへと放たれた。
鋭く尖った氷が空気を裂く。
だが――
「聖なる光よ、我を守れ」
リアーナは即座に短い祈りを紡いだ。
彼女の足元に花弁のような光輪が展開される。
淡い光が体を包み、氷柱はその表面で砕け散った。
しかし、すべてを完全には防ぎきれない。
光の鱗をすり抜けた小さな氷の欠片が、リアーナの肩を掠めていた。
「チームA、小ポイント!」
審判の声が響く。
リアーナは短く息を呑みながらも、すぐに姿勢を立て直した。
その瞬間、ジグラットが動いた。
「フィノ。アッシュを釣れ」
短く指示を飛ばす。
「了解ですっ。任せてください!」
フィノはにやりと笑い、霧の中からアッシュの視界にわざと入り込む。
「ねぇねぇ、そっちのイケメンさーん。こっち、見てくれません? わたし、ちょっと暇してるんですけどぉ」
軽やかに腰をひねり、両手をぶんぶんと振って見せる。
観客席から、どっと笑いが起こる。
だが――
「……」
アッシュはほんの一瞬だけそちらへ視線を送り、すぐにティアナとセラの方へ戻した。
挑発には乗らず、味方のカバーを優先する動きに徹している。
セラが詰め、ティアナが矢を放ち、アッシュがそこに剣を被せる。
ジグラット側の前衛を押し返しながら、フィノの挑発は意図的に無視され続けた。
「むきーっ、ちょっと顔がいいからって、乙女のお誘いを無視しちゃいますかこのやろーっ」
フィノがわざとらしく地団駄を踏んでみせる。
ジグラットは小さくため息をついた。
「釣れ、と言って出てくるのがそれか」
「殿下までひどいっ!?」
振り返って抗議しながらも、その目は決して戦場から離れていない。
冗談を言いつつも、アッシュの視線の動きや仲間を庇う癖を、フィノはしっかり観察し続けている。
(……たとえフィノが奴の好みでないにしても、多少は視線を逸らせるかと思ったが)
ジグラットは内心で肩を竦める。
(勇者補正か、こいつの生来の真面目さか)
どちらにせよ、「簡単には釣られない」という情報は得られた。
◇ ◇ ◇
残り五分となった。
魔導掲示板のポイントは、相手チームがわずかに上回っている。
まだ逆転は可能だが、このまま互角に打ち合えば、じわじわと差を広げられてしまうだろう。
(ティアナの弓とソフィアの氷、それにノワールの夢界。前衛を押さえているのは、ほぼアッシュとセラ)
ジグラットは戦場を一瞥する。
レティシアはティアナとセラ二人を相手にほぼ互角に渡り合っている。
エリナの結界はソフィアの魔術をかなりの割合で殺している。
ミレイユの罠も刺さっている。
フィノは自由に走り回り、リアーナは淡々と回復と補助を回している。
(悪くない。むしろここまで接戦となれば上出来だろう)
それにこの模擬戦での勝敗はさして重要ではない。
勇者アッシュの戦い方。
森族二人の連携。
ソフィアとノワールの魔術の癖。
リーダー格の三年生の指示の出し方。
生で体感したそれらの情報こそが、今後の生存戦略における鍵となる。
(……まあ、勝ちに行けなくもないんだが)
ジグラットは剣を抜いた。
「前に出る。エリナ、俺の周囲を重点的に」
「承知しました」
光の結界がジグラットの周囲に薄く重なっていく。
「《崩迅撃》」
そして剣に魔力を込め、一歩で詰めた。
踏み込みと同時に、剣先から圧縮された衝撃が地面を這うように走り、敵前衛へと迫る。
土が跳ね、砂が渦を巻く。
観客席がざわめき、誰かが驚きの声を上げた。
「おお……噂の第二王子が本気を」
「あんな動きできるのかよ……!」
ティアナとセラがその衝撃を受け止める。
アッシュも前に出て、仲間の前に立った。
「負けない!」
アッシュの剣がジグラットの斬撃を正面から受け止める。
腕に伝わる反動。
前線の空気が、一瞬で熱を帯びる。
観客席のざわめきがさらに大きくなった。
「……あれが勇者候補か」
「すごいな、あの反応速度」
セラとティアナがレティシアを押し返し、ノワールが夢界魔術でミレイユとエリナの集中力を削りにかかる。
ソフィアは氷の魔力を高めながら、長い詠唱に入っていた。
「《氷晶創界》――」
戦場全体を氷の檻に変える大魔術。
模擬戦用に威力は抑えられているとはいえ、まともに食らえば一気に大ポイントを奪われかねない。
「エリナ」
「はい。――《聖光審判》」
防御特化の魔術が展開される。
光と氷がぶつかり合い、眩い閃光が訓練場を照らした。
観客席からどよめき。
魔導掲示板の端に、「高魔力反応」と警告の文字が一瞬灯る。
光が収まったとき、ジグラットは自分の肩で誰かの気配を感じた。
「……ジグラット兄様」
背後から静かな声が聞こえる。
その声の主は振り向くまでもなくわかる。リアーナだった。
彼女の指先から淡い光が糸のように伸びている。
ジグラットの肩に走っていた鈍い痛みが、ふっと軽くなった。
(いつの間に――)
視線を横に走らせると、リアーナの周囲にも光輪がいくつか散らばっていた。
レティシア、フィノ、エリナ。
味方の負傷部分に、ほとんどタイムラグなく回復が付与されている。
(……これは)
転生前のゲーム知識にある、聖女覚醒イベントのずっと後に開放された高位支援技――「自動補助祈祷」にそれは似ていた。
だが今のリアーナはまだ正式な聖女ではない。
にもかかわらず、その片鱗をすでに戦場で発揮して見せている。
「《聖域展開》」
リアーナの声が、戦場全体に染み渡るように響いた。
次の瞬間――
ソフィアの氷柱、ティアナの風矢、アッシュの斬撃。
三方向から同時にジグラットへ向かっていた攻撃が、目の前で弾かれた。
柔らかいが絶対に破れない膜のような光が、ジグラットを中心に円を描いて広がっていく。
聖女候補の祈りが形を成した、簡易の「聖域」。
氷の破片と風の刃が光の表面で砕け散った。
「……っ」
ジグラットは一瞬だけ瞼を閉じ、そのまま前を見据え直した。
(助けられた、か)
礼の一つでも言うべきだろうか。
だが振り返ったところで、リアーナはすでに次の詠唱へと意識を移していた。
あれは兄だからではなく、「聖女候補としての役目」に従っただけだろう。
「ジグラット兄様」と呼んだことすら、職務上の便宜かもしれない。
そのことをどこかで冷静に理解してしまう自分に、ジグラットは苦笑したくなった。
ふと視界の隅で、フィノの動きが一瞬止まったのが見えた。
いつもの軽い笑顔ではない。
真剣な目が、リアーナの背中と、その周囲の光をじっと見つめている。
(……)
何かを測るような眼差しで。
ジグラットはそれを視界の端で確認するに留め、今は戦場に意識を戻した。
その瞬間――
相手リーダーの三年生が、最後の魔力の残りを振り絞るようにして、渾身の一撃を放ってきた。
魔力をまとった光弾がジグラットの肩をかすめる。
光の聖域で威力は落ちていたが、それでも有効打としては十分であった。
「チームA、小ポイント!」
審判の声が響く。
続けて澄んだ笛の音が、訓練場の上空を切り裂いた。
「そこまで! 試合終了!」
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