第3話「基礎修養と"聖女の兆し"」後編

挿絵画像:https://kakuyomu.jp/users/rikkues/news/822139841708237643


 神官室を訪ねたその日の午後、ジグラットは王立資料庫へ足を運んだ。


 冷えた石階段を降りてゆくと、空気が徐々にひんやりと変わっていく。

 地下に広がる半球状の空間。高い天井まで届く本棚が、層を成すように並んでいた。


 羊皮紙とインクの匂い。

 古い魔術書に封じられた魔力が、微かな冷気となって肌を撫でる。


 資料庫の奥、魔術理論の書が集められた区画へ向かう。

 ジグラットは一冊の分厚い本を抜き取り、閲覧台に広げた。


『初等魔術概論──火と水の基礎』


 表紙には金文字が刻まれ、端は長い年月で少し擦り切れている。

 それでも、ページをめくる指先にはまだ充分な張りが感じられた。


 魔法使い職はLv.1。

 現状で使えるのは、しょぼい火球と水刃が一発ずつ――そんなところだ。


 だが前世の知識では、この世界の魔術システムには必ず「詠唱短縮」というスキルが存在する。

 ゲーム中盤以降にしか習得できないよう調整されていたが、理論さえ理解すれば初期段階でも応用の余地はありそうだ。


 ジグラットは活字を追いながら、頭の中で魔力の流れを組み立てていく。


 詠唱とは魔力を特定の形に変換するための“言語的触媒”だ。

 ならば、その触媒を省略したいなら――

 魔力の流れそのものを、言葉ではなくイメージで固定すればいい。

 手のひらを開き、静かに魔力を集める。


 視覚化。

 火の属性を、言語ではなく感覚で掴む。


 熱。揺らめき。

 燃焼の概念が掌の中に渦を巻くように集まる。

 口の中で、最低限の呼びかけだけを形にした。


「……火よ」


 短い一言。

 次の瞬間、手のひらの上に小さな火球がふっと生まれた。

 ろうそくの炎より少し大きい程度の、頼りない赤い光。


 だが、通常の初級詠唱よりも確実に二秒は早い。


 火球は不安定に揺らめき、数呼吸も持たずにしゅっと消えた。

 それでも術式は成立した。

 視界の端に、また一つ文字が灯る。


『魔法使いスキル:詠唱短縮 Lv.1 習得』


(……よし)


 ジグラットは本を閉じ、静かに息を吐いた。


(実戦投入にはまだ工夫がいるが……少なくとも、“ただの王族の火遊び”で終わる技じゃないだろう)


 魔術理論の読み込みは今後も続ける必要がある。

 だが、今日のところは目的を達した。


 ◇ ◇ ◇


 夕刻。

 王宮の大広間では定例の晩餐会が始まっていた。


 長テーブルを覆う深紅のクロス。

 その上には銀の燭台が並び、溶けた蝋がゆっくりと滴り落ちる。

 大皿には香草をまぶした肉料理や、色とりどりの野菜のテリーヌが美しく盛り付けられていた。


 シャンデリアの光が、磨き抜かれた銀器やワインのグラスに反射して、細かな光の粒を広間中に撒き散らす。

 貴族たちの笑い声と、食器の触れ合う音が混じり合い、華やかな喧噪を作り上げていた。


 ジグラットは王族席から一段下がった位置――貴族列の端に近い椅子へ座っている。

 本来なら王族としてもう少し中央寄りの位置を与えられてもおかしくないが、「問題児」の肩書きが巧妙に彼を場の端へと追いやっていた。


 隣には頑固そうな顔立ちの年配の伯爵。

 向かいには、まだ若い男爵夫妻が座っている。

 誰もジグラットに話しかけようとはしなかった。


 その沈黙をジグラットは特に不快がるでもなく、ただ眺めている。


(静かに飯が食えるなら、それはそれで悪くない)


 ワインを一口含んだところで――

 宮廷官の一人が席を立ち、声を張り上げた。


「では、余興の時間でございます。本日は第二王子殿下に、一席お願いしております」


 広間がざわつく。

 視線が一斉に、ジグラットへと雪崩れ込んだ。

 期待ではない。

「何をしでかすのか見物してやろう」という、好奇と侮りの混ざった視線。

 ジグラットはゆっくりと椅子から立ち上がる。


(……演劇家 Lv.1、か)


 まだ何のスキルも持たない職。

 だが、“場に立つ経験値”だけは得られる。


 彼は広間の中央へと歩み出た。

 ルシアスの冷たい視線と、リアーナの無関心な横顔を斜め上から感じながら。

 中央で立ち止まり、深く一礼する。


「皆様、本日はこのような場にお招きいただき、光栄に存じます」


 声は決して大きくはないが、よく通った。

 男女、老若、遠近――あらゆる方向に、同じ“聞こえやすさ”で届く声量と抑揚。

 場が静まり返る。


「さて、私は剣も未熟、魔術も初歩。王族としては、いささか頼りない存在でございます」


 貴族たちの間にくすくすと小さな失笑が走る。

 嘲りを含んだ笑いだ。

 ジグラットはそれを正面から受け止め、わざと口角を上げる。


「ですが――」


 言葉を区切り、ゆっくりと視線を巡らせる。


「頼りない王子が一人いることで、皆様もご安心いただけるのではないでしょうか。完璧な王族ばかりでは、息が詰まりますからね」


 沈黙。今度は笑いさえ起きない。

 誰もどう反応すべきかわからず、視線だけが宙をさまよっている。

 ジグラットは続けた。


「先日、訓練場で剣術指南役に挑みました。結果は――まあ、お察しの通りです」


 いくつかの席から、明確な冷笑が漏れた。

 侮蔑を隠そうともしない笑い。


「ですが一つだけ学んだことがあります。それは、負けても諦めなければ、次はもう少しマシになるということです」


 言いながら、自分で自分の言葉に苦笑したくなる。

 それでも口に出した。

 それはここに転生してから初めて王族としてではなく、“ひとりのプレイヤー”としてこの世界に立っているという宣言でもあったからだ。


「拙い余興でしたが、お楽しみいただければ幸いです」


 もう一度、一礼。

 広間にまばらな拍手が起こる。

 形式的で、心の籠っていない音。

 それでも、完全な沈黙よりはまだマシだった。


 ジグラットは席へ戻り、何事もなかったかのように椅子へ腰を下ろした。

 視界の端で淡い文字が浮かぶ。


『演劇家スキル:場の掌握 Lv.1 習得』


(失笑でも、笑いは笑いってことか)


 内心で苦く笑いながらも、そのスキルの内容に興味を覚える。


 声のトーン、視線の配り方、話題の選び方――

 さきほどの挨拶で、無意識のうちに最適化していた部分がスキルとして固定されたのだろう。


(……使いどころを間違えなければ、対人戦で武器にもなりえるか)


 爪が掌に食い込むほど拳を握っていても、ジグラットの表情は終始、薄い微笑みのままだった。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝。

 ジグラットは薄い眠気を背負ったまま王宮礼拝堂へ足を運んでいた。


 高い天井には女神アリュエルにまつわる物語を描いたステンドグラスが嵌め込まれている。

 朝日がそこを通り抜け、青や紅、金色の光の破片となって床一面に散り落ちていた。


 静謐。

 空気そのものが祈りを含んでいるかのような、澄んだ空間。


 祭壇の前に、人影が一つ。

 プラチナブロンドの髪が虹色の光を受けて月光のように輝いている。

 白い礼服に、金糸で刺繍された紋様が静かに浮かび上がる。


 リアーナ=エルステリア。

 ジグラットの妹であり、聖女候補。

 民衆にとっては、まだ見ぬ“救いの象徴”。


 彼女は両手を組み、目を閉じて祈りを捧げていた。

 薄い唇が誰にも聞こえない祈りの言葉を紡ぐ。

 その周囲に――淡い光の波動が、確かに広がっていた。


 ステンドグラスの色が反射しているだけではない。

 祭壇の前の空気が、リアーナを中心にゆっくりと膨らみ、震え、静かに明滅している。


(……これは)


 ジグラットは思わず足を止めた。


 聖女の兆し。

 転生前の知識では、リアーナが聖女として覚醒するのは“学園入学後”だった。

 勇者アッシュとの出会いが、彼女の中に眠る力を呼び覚ます――そういうイベントとして覚えている。


 だが今はまだ勇者とリアーナは学園で出会っていない。

 それなのに、すでにこの“神気の揺れ”が生じている。


(……やはり、歴史はズレ始めてる)


 裏回廊。セレスタ。

 自分が動いたことで、世界のイベント発生条件が微妙に前倒しされている。


 ジグラットは静かに息を吐き、慎重に歩を進める。

 リアーナの祈りがちょうど終わるところだった。


 彼女は手を下ろし、ゆっくりと瞼を開く。

 アメジストの瞳が振り返りざまにジグラットの姿を捉えた。


 冷たい視線。

 兄への感情を、意識して消し去ろうとしているような目。


「……何か御用ですか、ジグラット兄様」


 声音もまた、氷の表面を滑るように滑らかで温度がなかった。

 ジグラットは一歩、前へ踏み出す。


(試してみる価値はある)


 昨夜の晩餐会で身についたばかりのスキル――『場の掌握 Lv.1』。

 声の高さ、間合い、言葉の選択。

 相手が無意識に耳を傾けてしまうよう、わずかにだけ調節された話し方。

 ジグラットは意識を集中させ、スキルを起動する。


「祈りの邪魔をするつもりはない」


 声にほんの少しだけ柔らかさを混ぜた。

 いつもの冷ややかさを抑え、攻撃性のないトーンに落とす。


「ただ……お前の祈り、以前より深くなったように見えた」


 リアーナの表情がほんの一瞬だけ揺れる。

 それは驚きか警戒か。

 あるいは僅かな戸惑いだったのかもしれない。

 ジグラットは言葉を継いだ。


「俺はお前のことを何も知らない。それは、自覚している」


 一歩、距離を詰める。

 威圧にならないよう、視線は彼女の肩口に置く。


「だが、兄として――せめてお前が何を祈っているのか、知りたいと思った」


 その瞬間、リアーナの瞳が鋭く細められた。

 口元に浮かんだのは、微笑とは似ても似つかぬ冷たい線。


「……兄様は、何を企んでいるのですか」


 ジグラットの足が止まる。


「企む?」

「以前の兄様なら、そんな言葉は決して口にしませんでした」


 リアーナは一歩後ろへ下がった。

 空間そのものに、見えない線を引くように。


「兄様は……変わり始めている。以前とは何かが違う」


 アメジストの瞳に警戒の色が濃く宿る。


「優しい言葉で近づいて、今度は一体何を企んでいるのですか。それとも、私を利用するつもりですか」

「違う」


 思わず声が強くなる。

 リアーナの視線がさらに冷えた。


「では、何ですか」


 問いかけは静かだ。

 だがその言葉は研ぎ澄まされた刃のように、どこまでも鋭い。


「兄様が変わり始めているのは、感じています。ですが、その変化が本物かどうかは、まだわかりません」


 リアーナは礼服の裾を翻し、祭壇から距離を取る。


「お言葉ですが――表面だけ取り繕っても、無駄ですから」


 それだけ告げると、踵を返して歩き出した。

 ジグラットの横を通り過ぎるその瞬間でさえ、彼女は一瞥も向けない。

 白い裾がステンドグラスの光を切り裂いて、扉の向こうへ消えていく。


 ジグラットはその場に立ち尽くした。

 拳に自然と力がこもる。

 爪が掌に食い込み、鈍い痛みが神経を刺した。


(……場の掌握スキルでも、ダメか)


 演劇家としての小手先の技術で、妹の心をこじ開けることはできない。

 兄という血縁の立場で近づいても、彼女は逆に距離を広げるだけだ。


(俺は兄としてじゃなく、“別の立場”で近づくべきなのかもしれないな)


 礼拝堂を出て、石畳の廊下を歩きながら思考を巡らせる。

 転生前の知識では、聖女覚醒は勇者との連携イベントで発生する。

 だが今、勇者と出会う前から兆しが現れている。


 教会勢力、《聖鎖会》、その他の宗教派閥――

 それらの動きも、前倒しで始まっている可能性が高い。


(三年後の破滅まで、時間がどんどん削られている)


 焦りが胸の奥で小さく軋む。


 ◇ ◇ ◇


 夜。

 訓練を終え、資料庫での読み込みも済ませたジグラットは湯殿へと向かった。


 王宮の湯殿は白大理石で造られた広々とした空間だ。

 湯気が立ちこめ、天井近くの窓から差し込む灯りが水面をやわらかく揺らめかせている。


 湯に身体を沈めると、丸一日中張りつめていた筋肉がじわじわと溶けるように緩んでいった。


 湯殿の一角には大きな鏡が取り付けられている。

 立ち昇る蒸気に曇りながらも、そこには自分の姿がぼんやりと映し出されていた。


 淡金の髪。深蒼の瞳。

 水滴を伝う頬はどこか意地の悪い線を残している。

 口元には笑っていないのに微笑んでいるように見える癖が刻まれている。


(悪役面は、もうどうしようもねえな)


 鏡越しに自分を見つめ、鼻で笑う。


(だが――目の光だけは、まだ死んでねぇ)


 湯から上がり、簡素な寝間着へ着替える。

 部屋に戻ると、机の上には広げっぱなしのジョブ習得計画表が待っていた。

 羊皮紙の端には十五の基礎職に続いて、矢印とメモの線がいくつも走っている。


 演劇家+踊り手+盗賊→ 暗躍系上級職

 魔法使い+僧侶+占い師 → 理術系上級職


 その隅に――

 ジグラットは羽ペンを取り、そっと一つの単語を書き加えた。


『聖女』


 攻略対象としてではない。

 物語の核を握る、世界の“歪み”を象徴する存在として。


 リアーナ。聖女の兆し。

 勇者との出会い――そして、三年後の破滅ルート。


 それらを丸ごとひっくり返すには、いずれこの単語と真正面から向き合わなければならない。


 ジグラットはペンを置き、窓の外を見やる。

 夜空には星が瞬き、淡い月が王都を見下ろしていた。


(三年後、か……)


 転生の瞬間、崩れ落ちる世界の中で見た赤い文字。

 

『破滅エンド 妹リアーナ率いる勇者パーティに討伐される』


 リアーナの横顔が浮かぶ。

 冷ややかな眼差し。

 情を切り捨てることでしか、自分の理想を守れなくなった妹。


(俺は生きる。生き残ってやる。そしてその時には、お前のその目に別の色を浮かべさせてやろう)


 憧れでも、愛情でも、憎悪でもいい。

 少なくとも、今のような「何も映していない瞳」のままでは終わらせない。


 ジグラットは窓を閉め、ベッドに体を横たえた。


 静寂が部屋を満たしていく。

 外では夜警の兵の足音が遠くで交差していた。


 瞼を閉じながら、彼は心の中で明日のメニューを並べていく。


 剣士と盗賊のミックスで回避と受け流しの練習。

 魔術師で詠唱短縮の精度を上げる。

 ついでに演劇家のスキルで、発言の内容と“効果”の関係を実験する。


 明日も、その次の日も、修行は続く。

 破滅エンドを書き換えるために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る