第3話「基礎修養と"聖女の兆し"」前編

挿絵画像:https://kakuyomu.jp/users/rikkues/news/822139841326705881


 裏回廊の事件から五日が過ぎた。


 ジグラット=エルステリアは自室の窓辺に立っていた。

 高窓から差し込む春の光が、白いカーテン越しにやわらいで室内に満ちる。

 外には王城中庭に併設された訓練場が見えた。


 土を踏み鳴らす靴音。

 木剣と木剣がぶつかり合う、乾いた衝突音。

 若い騎士たちの掛け声が、風にちぎれてここまで届いてくる。


 その音を耳の端で聞きながら、ジグラットは視線を机の上へ落とした。


 よく使い込まれた木目の上に、一枚の羊皮紙が広げられている。

 そこには小さく、しかし整然とした字で十五の基礎職の名が並んでいた。


 剣士 Lv.2(習熟 37%)

 盗賊 Lv.2(習熟 42%)

 魔法使い Lv.1(習熟 15%)

 商人 Lv.1(習熟 9%)

 僧侶、狩人、演劇家、技師、占い師──


 下の方にはまだLv.1どころか、職の枠だけが記され「未取得」と書かれた欄も残っている。


 ジグラットは指先で、羊皮紙の端をこつこつと叩いた。


(庶民なら、一生に一度の選択だってのにな)


 この世界では職の変更に神官の協力が必要だ。

 神殿への寄付と、ささやかながらも正式な儀式。

 そのために必要な金額は一般家庭からすれば目眩がするほど高い。


 だからこそ普通の人間はひとつの職に賭ける。

 一度選んだ道を、老いるまで歩き続けるのが当たり前だった。


 だが、王族は違う。

 王族には専属の神官と王家持ちの寄付枠がある。

 年に何度職を変えようが、帳簿上の数字が増えるだけだ。


 ジグラットはその特権を遠慮なく利用していた。

 剣士に就いたと思えば三日で盗賊、次は商人、演劇家──周囲から見れば、飽きっぽい子どもの道楽にしか見えないだろう。

 だが、それでいい。


(基礎職のレベルを、満遍なく底上げしておけば……)


 視界の端で、半透明のステータスウィンドウがふわりと浮かび上がる。

 ゲームじみたその表示も、今となっては見慣れたものだ。


(後の上級職の習得条件が一気に軽くなる。前世で散々、攻略サイトを眺め回したおかげだな)


 転生前の俺が、何百時間も吸い込まれたエロゲー。

 マルチジョブシステムが売りの『聖剣と終焉のクロニクル』。


 あのゲームで散々学んだのは――

 「序盤の地味な基礎職こそ、最終盤のぶっ壊れジョブへの踏み台」という、プレイヤーだけが知る真理だった。


 息を吐き、羊皮紙から視線を外す。

 窓の外で訓練場の隅を白い神官服が横切った気がした。


 栗色の髪。灰色の瞳。

 昨夜に裏回廊で遭遇した女神官の姿が鮮やかによみがえる。


 セレスタ=ヴァルデン。

 白い法衣の裾に隠された、不自然な膨らみ。

 淀みのない笑みと、笑みとまったく同じ形をした冷たい視線。

 そしてすれ違いざまの囁き。


『良い選択をなさいましたね、殿下』


(……正体は、まだ掴めていない)


 彼女が盗難事件の黒幕かどうか。

 王城に巣食う別勢力の手先なのか、それとも教会独自の思惑を背負う者なのか。


 どれも可能性としてはあり得る。

 だが証拠は、何ひとつない。


 第二王子という立場で神官を疑いの目で追い回せばどうなるか。

 王家と聖堂の軋みを自分の手で作り出すことになるだけだろう。


(今はまだ、表立って動く段階じゃない)


 それより先だ。

 三年後の破滅ルート。そのトリガーを折るために――

 まずは自分の“中身”を作り変えなければならない。


(まずは力をつける。戦闘力だけじゃない。逃げ道、迂回路、交渉材料……全部だ)


 ジグラットは羊皮紙を丁寧に折り畳み、机の端に置くと、壁にかけられた剣帯を手に取った。

 革の感触を確かめながら腰に巻きつけ、金具を留める。


 今日からはこれまでの「気まぐれな稽古」ではなく、意図を持った修行に変える。

 そう決めていた。


 ◇ ◇ ◇


 王城訓練場は昼前の光に白く照らされていた。


 高い石壁。

 いくつもの傷と欠け目が刻まれたそれは、ここがただの運動場ではなく、何代もの王族と騎士が汗と血を流してきた場所であることを物語っている。


 中央付近の地面は何度も踏み固められ、土肌が覗くほどだ。

 天井から落ちる光の粒が、舞い上がる砂埃を金色に染めていた。


 その中心に――一人の男が立っている。

 王家直属の剣術指南役、ガルフ。


 五十代半ば。

 日焼けした肌に刻まれた深い皺は、戦場という過酷な環境を生き抜いてきた証だ。

 太い腕と分厚い胸板。白髪混じりの短髪が、軍人らしくきっちりと刈り込まれている。


 粗野な顔立ちの中にも動きの一つ一つに無駄がない。

 腰に提げた木剣さえ、彼が持てば軍旗のような威圧感を持つ。


「第二王子殿下、本日は何を」


 低い声。

 口調には敬語が使われているが、その声音に敬意らしい温度はほとんどない。

 王族だから仕方なくそう呼んでいる――そんな距離感だ。

 ジグラットは訓練用の木剣を抜いた。


「基礎を見直したい。手合わせを頼む」


 ガルフの眉がほんのわずかに動く。

 驚きではない。

「何の風の吹き回しか」という疑念の揺れだ。


 ジグラットはそれを正面から受けて、わざとらしく肩をすくめた。


「兄上に笑われるのは、もう飽きたんでな。少しはマシになっておく必要がある」


 皮肉混じりの物言いに、ガルフは短く息を吐いた。


「……承知いたしました」


 訓練場の中央。

 二人は数歩の距離を置いて向かい合う。


 互いに木剣を構えたその瞬間、周囲で稽古をしていた騎士見習いたちの視線が、じわじわとこちらへ集まり始めた。

 ジグラットは中段に構え、ガルフの足元と肩の動きを観察する。


 先に動いたのは、ガルフだった。

 踏み込み――初手から、重い縦一閃。


 目にも止まらぬ速さではない。

 だが、素人の反応速度では到底追いつけない速度と重さ。


 ジグラットは半歩、後ろに滑るように下がった。

 同時に木剣を立て、刃を受け流す。


 ガン、と鈍い衝撃が腕を駆け上がった。

 足元が一歩分、勝手に下がりそうになる。


 歯を食いしばり、踏みとどまる。


 二撃目。

 今度は横薙ぎの一閃。

 さきほどよりも剣速が増している。


 ジグラットは避けずに受けた。

 木剣を斜めに立てて力の方向をずらし、衝撃を肩と腰へ逃がす。


「……っ」


 ガルフの目が細められる。

 そこにはわずかな――興味の色があった。


 今までのジグラットなら、一撃目で派手に転げていたはずだ。

 荒れた性格に任せた突貫、それを受け止めきれず自滅するのが常だった。

 ジグラットはあえて距離を取り直し、息を整える。


 腕には痺れが残っている。

 だが、呼吸は乱れていない。


(――盗賊職の敏捷と、剣士の基礎がようやく噛み合ってきたか)


 視界の端で薄い光が瞬く。


『剣士スキル:受け流し Lv.1 → Lv.2』


 それはこの世界において、自分だけが見えている“ゲームめいた”成長の印だった。


 ガルフは何も言わず、構えを変える。

 今度は連撃だ。


 一撃目、二撃目、三撃目――

 足と腕のリズムを揃えた、熟練者の畳みかけ。


 ジグラットは受け、逸らし、半歩ずつ後退していく。

 防戦一方。されど、無様に転がることはない。


 四撃目に入った瞬間、ジグラットはほんの僅か、口角を上げた。

 商人職で手に入れたスキルの文字が脳裏に浮かぶ。


『商人スキル:交渉術 Lv.1』


 戦場で使うものではないはずのスキル。

 だが「言葉で相手の意識をずらす」という点では、利用価値がある。


 刃と刃が噛み合う瞬間、ジグラットは低く言葉を差し込んだ。


「――その連撃、戦場で何度使った?」


 ガルフの眉がかすかに動く。


 その一瞬。

 視線が「今」から「過去」へ跳んだ隙に、ジグラットは身体を滑り込ませた。


 剣を押し上げ、相手の懐へ潜り込み――

 喉元寸前で木剣の先をぴたりと止める。


 訓練場に短い沈黙が落ちた。

 ガルフはゆっくりと剣を下ろし、深く息を吐く。


「……殿下にしては、意外と粘りますな」


 口ぶりは皮肉にも聞こえるが、そこには確かに、わずかな評価の響きがあった。

 ジグラットは木剣を下ろし、息を整えながら肩をすくめる。


「基礎職でも、組み合わせればそれなりに使える」


 口では軽く言う。

 だが掌の中では汗に濡れた木剣の柄が、じっとりと重さを主張していた。


「ありがとう、ガルフ。また頼む」

「……はい」


 指南役は短く一礼し、その場を離れる。


 訓練場の端で稽古を見ていた若い騎士たちは、何とも言えない表情を浮かべていた。

 尊敬でもない。軽蔑とも違う。

「想定と少し違う何か」を見せられた時の、戸惑い混じりの表情だ。


(少しずつ、だ)


 ジグラットは木剣を握り直した。


(少しずつでいい。目の色が“完全な嘲り”から“評価保留”へ変わるだけでも、十分な前進だ)


 ◇ ◇ ◇


 訓練を終えたジグラットは汗を拭うのもそこそこに、王宮礼拝堂の裏手にある神官室へ向かった。

 人目につきにくい石造りの通路を抜け、重い木の扉を開ける。


 小さな部屋だ。

 壁には女神アリュエルの小像が掛けられ、足元の祭壇には簡素な布が敷かれている。

 机の上には聖油の瓶と、儀式用の銀製の器具が整然と並べられていた。


 その奥、背凭れの低い椅子に腰掛けているのは、フェリクス神官。


 六十代半ば。

 痩せ型の身体に灰色の神官服が少し大きく見える。

 額の薄い白髪と深い皺が、長年の奉仕と疲労をそのまま刻んでいた。


「第二王子殿下、本日は如何なさいましたか」


 穏やかな声。

 だが、そこにはどこか諦観めいたものが混じっている。

 ジグラットは簡潔に告げた。


「職の変更を頼む。剣士から魔法使いへ」


 フェリクスの眉がほんの僅かに持ち上がる。


「……また、変更されるのですね」


 言葉は柔らかい。

 それでも、その奥に「またですか」という神官としての本音が透けて見える。


「問題があるか?」


 ジグラットが抑えた声で返すと、フェリクスは首を振った。


「いえ、もちろん問題はございません。殿下のご意志は、女神様もお受け入れになりましょう」


 そう言って立ち上がると、祭壇の前へと歩を進める。


「では、儀式の準備をいたします。寄付金は……通常通りでよろしいですね」

「ああ」


 ジグラットは腰の革袋から金貨の詰まった袋を取り出し、机の上へ置いた。

 じゃらり、と重い音が響く。

 フェリクスはそれを受け取り、慎重に祭壇の上へと移した。


 金貨の山の前に両手を添え、静かに祈りの言葉を紡ぐ。

 次いで小瓶から聖油をすくい上げ、ジグラットの額へ指先を当てた。


「女神アリュエルの御名において、職の変更を承認いたします」


 柔らかな光がジグラットの身体を包み込んだ。


 皮膚の下を何かの流れがすり替わるような感覚。

 視界の隅にステータス欄の職業が『剣士』から『魔法使い』へと書き換えられていくのが見える。


 やがて光が収まり、部屋の空気が元の静けさを取り戻した。


「以上でございます」


 フェリクスは一礼し、元の位置へ下がる。

 ジグラットは短く頷き、神官室を後にした。


 扉が閉まる音が響いたあと――

 フェリクスは誰もいなくなった部屋で、深く長い息を吐いた。


 祭壇に供えられた金貨の山を見つめ、皺の多い口元がかすかに歪む。


「……また三日と経たぬうちに。まったく、飽きっぽいお方だ」


 庶民であれば一生に一度の選択を何度も繰り返す。

 王族の奔放さと、神官としての責務の狭間で、彼の心はいつも複雑な揺れに晒されていた。

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