第2話「尻拭いの裏ルート」

挿絵画像:https://kakuyomu.jp/users/rikkues/news/822139841319751981


 成人式から、三日が過ぎた。


 王宮はあの式典の余韻を飲み込んだまま、今度は別の慌ただしさに包まれていた。

 晩秋の謁見式――成人前後の王族や高位貴族子弟が一堂に会し、王家への忠誠を新たに誓う儀式が目前に迫っている。


 磨き上げられた廊下を彩り豊かな礼服やドレスが行き交う。

 使用人たちは花飾りや紋章旗を運び、文官たちは山積みの文書を抱えて小走りになる。

 あちこちで指示の声が飛び交い、王宮全体が一つの巨大な舞台装置と化していた。


 その喧噪の下で――ひそやかに広がっている噂がある。

 宝物庫から聖具の一部が盗まれたというのだ。


 宮廷は当然のようにそれを表沙汰にはせず、限られた者だけで内部調査班を動かしている。

 だが噂というものは封じ込めようとすればするほど、別の水路を見つけて流れ出す。


 廊下の角。窓辺の陰。控えの間の片隅。

 貴族たちは扇子や手袋の影に息を潜め、小声で囁き合っていた。


「被害を黙殺すれば、王家の威信が傷つくのではないか」

「かといって公表すれば、民衆の不安を煽ることになる」

「どちらにせよ、最終的には第一王子殿下がご決断なさるだろう」


 結論めいた一文とともに、視線はいつも同じ場所へ向かう。


 ――第一王子ルシアス。


 そこに“問題児の第二王子”という選択肢は、初めから存在しないかのように扱われていた。


 ◇ ◇ ◇


 ジグラット=エルステリアは王族用執務室の窓辺に立っていた。

 大きく開かれた窓の向こうでは、中庭の噴水が柔らかな水音を奏でている。

 ジグラットは指先で窓枠をリズミカルに叩きながら、遠くの景色ではなく、自分の内側の思考の流れを見つめていた。


(宝物庫から聖具が盗まれる、か)


 噂話の断片をつなぎ合わせれば、事件の輪郭はおおよそ見えてくる。

 盗まれたのは古い聖具の欠片。

 数も多くはなく、王宮内部の者でも詳細を把握しているのはごく一部だけ。


(放っておけば、いずれ兄上か騎士団が“見事に解決”して手柄にするだろうな)


 第一王子の名誉のため、王家の威信のため――

 そう言われれば、誰も反対はしない。


 だがそれはつまり、第二王子の影がさらに薄くなるということだ。

 本来こうした案件の表舞台に立つのは第一王子か騎士団長である。

 第二王子である自分は、何もしなければ永遠に「問題児」のまま、空気のように扱われるだろう。


(だが――もし俺が裏で片をつければ)


 父王の評価がほんの少しでも動くかもしれない。

 第一王子にとっても“厄介ではあるが有用な駒”として認識が変わる可能性がある。


 打算だ。

 それはジグラット自身もよく理解している。

 それでもこの王宮で生き延びるには、打算と計算こそが最低限必要な武装だった。


 ジグラットは視線を中庭から離し、執務机の上へ戻した。

 そこには王宮の見取り図が広げられている。

 宝物庫、聖具庫、礼拝堂――それらを繋ぐ裏動線を示す、古い図面だ。


(ゲームでは……この時期にこんなイベント、あったか?)


 前世の記憶を慎重に手繰る。

 エロゲー『聖剣と終焉のクロニクル』。

 学園入学前の王宮パートはプレイヤー視点からすると導入に過ぎず、細かな事件までは描写されていなかった。


(いや、待て。似たような“小ネタ”はあった気がするが……)


 第一王子ルシアスの好感度が高い時にだけ発生する、王宮内のトラブルイベント。

 盗難騒ぎをきっかけに、聖女候補や神官とのフラグが立つ――


 記憶は曖昧だった。

 ルートごとに展開が違いすぎて、王宮イベントだけで何周もするほどやり込んだわけではない。


(……もともと存在していたイベントなのか、俺が動き出したせいで“正史”が軋んだのか)


 確証はない。

 だがひとつだけ確かなのは――


(転生者として好き勝手動き始めてしまった以上、未来はもう“攻略サイト”通りじゃいられない)


 ジグラットは軽く息を吐き、見取り図のある一点へ指を滑らせる。


 王宮の表回廊から外れた細い線。

 宝物庫、聖具庫、礼拝堂を結ぶように走る、古い通路。

 裏回廊と呼ばれる、魔術封印だけが施された古い経路だ。


(まずは、ここからだな)


 ◇ ◇ ◇


 その夜。

 王宮が静寂に包まれた深夜の刻。


 ジグラットは濃紺の外套のフードを目深に被り、人気のない裏方区画へと足を踏み入れていた。


 昼間は使用人や補給兵が行き交う裏廊下も、今は灯りが半分ほど落とされて薄暗い。

 壁に掛けられた燭台の炎が揺れ、長い影を床へと伸ばしている。


 ジグラットは足音を殺しながら歩いた。

 まだ身体は少年のままだが、前世で培った夜更かしと隠しルート探索の経験が、妙な形で活きている。


 礼拝堂の裏手にある小さな扉の前で足を止める。

 見た目はただの物置だ。

 だが見取り図によれば、その奥に裏回廊へ続く階段があるはずだった。


 周囲に警備兵はいる。

 それも形式的な巡回で、扉の内側にまでは立ち入らないことを、前もって確認済みだ。


 ジグラットは扉に手を置き、静かに目を閉じた。

 軽く集中すると、視界の端に半透明の文字列が浮かび上がる。


『スキル:開錠 Lv.1 使用可能』


 転生後、ジグラットはこっそり基礎職のスキルを集中的に叩き込んでいた。

 王族には関係のない盗賊系スキルもその中に含まれている。


(まさか王宮の第二王子が、“盗賊スキル”を嬉々として上げてるとは誰も思うまい)


 薄く口角を上げ、扉の錠前へ指先を滑らせる。


 冷たい金属の感触。

 そこへ魔力を薄く流し込むと、錠前の内部構造がぼんやりと浮かび上がった。


 複雑なピンとバネ。

 古いが、今もなお機能している精巧な仕掛け。


(Lv.1でこれなら、まあギリギリ届くか)


 息を潜め、指先の感覚だけを頼りに魔力を動かす。

 ピンの位置をずらし、バネの力を受け流すように魔力を滑らせ――


 カチリ。

 小さな音とともに、錠前が外れた。

 ジグラットは周囲の気配を確認してから、扉を押し開ける。


 冷えた空気が隙間から流れ込んできた。

 石の匂いと、長く閉ざされていた場所特有の湿った香り。


 ジグラットは身体を滑り込ませ、静かに扉を閉める。


 ◇ ◇ ◇


 裏回廊はまるで別世界のような静けさだった。

 粗く組まれた石壁には魔力を帯びた苔がじわりと這い、かすかな青白い燐光を放っている。

 それが薄闇に揺らぎながら広がり、まるで水底から差し込む光のような幻想的な模様を形作っていた。


 床はところどころ湿り気を帯び、足音を吸い込むように鈍く響く。

 天井は低く、伸ばした手が触れられそうな位置にある。


 壁面には古い魔術封印の痕跡が刻まれていた。

 円や線が幾重にも重なり合った幾何学模様が、苔の光を受けて淡く発光し、ときおり脈動するように明滅する。


 空気はひんやりと重く、長い年月、ほとんど人の出入りがなかったことを物語っていた。

 静寂は不気味でありながら、どこか耽美な魅力を帯びている。


(ゲームだと、こういう場所には大抵“隠しアイテム”か“中ボス”が配置されるんだが)


 ジグラットはそう内心で呟きながらも、慎重さを崩さない。

 浅く息を吸い、索敵スキルへ意識を向ける。


『スキル:索敵 Lv.1 使用中』


 視界の中で見えない糸が広がるような感覚がした。

 すぐ近くの魔力反応や生体反応が、濃淡のある影となって浮かび上がってくる。


(……いるな)


 前方の曲がり角の先、壁際に小さな反応が一つ。

 ジグラットは外套の裾を押さえ、足音を殺して進む。


 石壁に沿って慎重に角を曲がると――そこに人影があった。


 小柄な身体が壁に寄りかかるようにして座り込んでいる。

 薄汚れた服。肩までの髪はぼさぼさで、色味さえ判別しづらい。

 栄養が足りていないのか、肌は青白く痩せこけていた。

 苔の燐光がその顔を幽霊じみた色で照らし出す。


「……誰だ」


 ジグラットの声が低く響いた。

 その一言に、人影がびくりと跳ねる。


 顔を上げた。

 大きな瞳が怯えに揺れ、暗がりに慣れていないのか何度も瞬きする。


 少年とも少女ともつかない印象。

 だがよく見れば、その骨格には僅かに女性の線があった。

 震える唇から掠れた声がこぼれる。


「た、助けて……」


 握りしめていた手の力が緩み、布袋が床に落ちた。

 口がほどけ、中身が転がり出る。

 淡い金色の光を帯びた、小さな聖具の欠片が、いくつも。

 魔力の残滓が空気を震わせ、裏回廊の静寂にわずかな波紋を広げた。


「……盗人か」


 ジグラットは剣帯に手を伸ばし、細剣を抜く。

 抜き放たれた刃の冷たい光が少女の顔面を照らした。

 喉元へ向けて淡々と突きつける。

 少女は悲鳴を上げ、小さな身体を強張らせると、必死に首を振った。


「ち、違う……私は、ただの荷運び役で……お願い、見逃して……!」


 涙が大きな瞳から溢れ、汚れた頬を伝って床に落ちる。

 声は震え、言葉がところどころ途切れていた。

 ジグラットは剣を下ろさないまま、冷ややかに問いを重ねる。


「誰に雇われた」


 少女は喉を鳴らし、掠れた声を絞り出した。


「わ、わからない……顔も、名前も……ただ、金貨を渡されて、これを運べって……」


 言葉と言葉の間から、恐怖と混乱が漏れ出している。

 ジグラットは目を細めた。


(……末端か)


 擦り切れた服。痩せ細った手首。怯え切った目。

 孤児上がりか、あるいは浮浪児を拾ってきて、使い捨ての運び屋に仕立てたのだろう。


 ここで究明できるのは「盗みの実行に使われた駒の一人がいる」という事実だけ。

 首謀者に繋がる線は持っていない。

 剣の切っ先を、ほんの少しだけ引く。


「立て」


 短い命令に少女はびくりと反応した。

 壁に手をつき、よろよろと立ち上がる。

 足は震え、今にも崩れ落ちそうだ。


 ジグラットは彼女の手首を掴んだ。

 

 驚くほど軽い。

 枯れ枝のように細い手首が、自分の指の中で頼りなく震える。


(この程度の駒を潰して満足するほど、俺は甘くない)


 そう心の中で吐き捨てながら、少女を引き連れて裏回廊を戻り始めた。


 ◇ ◇ ◇


 裏回廊の出口付近まで戻ったときだ。

 微かな気配が先の方から近づいてくる。

 

 ジグラットは少女を壁際へ押しやり、自分も影の濃い柱の陰へ滑り込んだ。


 石床を踏む足音が響く。

 軽すぎず、重すぎず。

 訓練された兵士のものでも、怯えた子どものものでもない。

 一定のリズムで歩を進める、落ち着いた大人の足取り。


 やがて出口の扉の隙間から光が差し込む。

 扉が開き、一人の人影が裏回廊へと入ってきた。


 白を基調とした神官服。

 襟元と袖口には金の刺繍が施され、差し込む月光を柔らかく受け止めて淡く輝いている。


 深い栗色の髪が首筋までの長さで緩やかなウェーブを描いていた。

 柔らかな微笑みを浮かべた整った顔立ちには、聖職者らしい清潔さと、どこか妖しい色気が同居している。


 切れ長の目。すっと通った鼻筋。

 口元に浮かぶ笑みは優しげだが、その灰色がかった瞳の奥には冷たい光が潜んでいた。

 獲物を品定めする猛禽のような、鋭く冷徹な眼差し。


 女性だ。

 年の頃は二十代半ばほどだろうか。


 神官服の上から羽織った外套が、どこか不自然に膨らんでいる。

 歩く度に、その膨らみがわずかに揺れた。


「あら」


 彼女はジグラットの存在に気づき、表情だけで驚きを示すと、すぐに優雅な笑みへと切り替えた。


 外套の裾をつまみ、丁寧に一礼する。

 その所作には貴族令嬢を思わせるような洗練があった。


「殿下、こんな場所で何をなさっているのです」


 柔らかい声。

 耳に心地よい音色だが、瞳だけは一瞬たりともジグラットから離れなかった。


「……あなたは」


 ジグラットは警戒を隠さない声で問い返す。

 彼女は微笑みを深めた。


「セレスタ=ヴァルデンと申します。王宮礼拝堂に仕える神官でございます」


 セレスタ。

 ジグラットはその名を脳裏に刻み込む。


「こんな時間に、神官が裏回廊に何の用だ」


 問うと、セレスタは首を傾げた。

 その仕草すら鏡の前で何度も練習したような自然さと作為が混じり合っている。


「祈祷の準備がありまして。古い聖具を確認しに参りました」


 言葉は滑らかだ。

 声色にも不自然な揺れはない。


「聖具を、ね」


 ジグラットが淡々と返すと、彼女は少しだけ肩を竦めてみせた。


「ええ。ですが……どうやら手違いがあったようで。お目当てのものは、どこにも見当たりませんでした」


 そう言って、外套の裾を軽く払う。


 だがその動きの端々が、どこか“舞台の上の演技”じみていた。

 見せたいものだけを見せ、見せたくない部分から自然に視線を外す――そんな訓練された動きだ。


(……嘘だな)


 ジグラットの直感が静かに告げる。


 外套の不自然な膨らみ。

 微かな呼吸の乱れ。

 わざとらしいほど完璧な笑み。


 何かを隠している。

 だが――証拠はない。


 剣を抜いて詰め寄るには、あまりに材料が乏しすぎた。

 神官という立場を持つ女に、悪名高い第二王子が深夜の裏回廊で刃を向けた――

 それだけで世間の評価は一瞬で決まってしまうだろう。


 ジグラットはわずかに顎を引き、剣を鞘へ戻した。


「……そうか」


 一歩、彼女の進路を空ける。

 セレスタは笑みを崩さないまま、ジグラットの横を通り過ぎた。


「では、失礼いたします。殿下も、お気をつけて」


 柔らかな声。

 すれ違いざま、彼女の吐息が耳の近くを掠める。

 そして、ごく小さな囁きが落ちた。


「――良い選択をなさいましたね、殿下」


 ジグラットの足が止まる。

 振り返った時には、セレスタはもう扉の向こうへ姿を消していた。

 白い神官服の裾だけが、闇に溶ける直前の残像のように揺れている。


(……今のは、どういう意味だ)


 胸の奥に小さな棘のような違和感が残った。


 だが今は――

 ジグラットは物陰から少女を引きずり出した。


「行くぞ」


 短く告げると、少女は怯えた目で彼を見上げ、よろよろとついてきた。


 ◇ ◇ ◇


 ジグラットは少女を王宮警備隊へ引き渡した。

 それと同時に裏回廊の封鎖と再封印を提案する報告書を文官を通じて提出する。


 翌朝。

 彼は王の執務室へ呼び出されていた。


 高い天井。

 壁一面の書架には帝国の歴史と法律を記した文書が整然と並ぶ。

 東の大窓から射し込む朝日が、赤い絨毯の上に長い光の帯を作っていた。


 中央の玉座に座すのは、エルステリア王国の国王――アレクシオン=エルステリア。


 王家特有の金髪は短く刈り揃えられ、若い頃の眩い輝きよりも、渋みを帯びた色へと変わっている。

 鋭い蒼の瞳は視線を合わせた者に一瞬で威圧感を与える。

 鍛え抜かれた長身は、ただ腰掛けているだけで軍人のような風格を漂わせていた。


 深紅の王服に金の外套。

 肩にかかる金刺繍が、王という存在の重みを静かに主張している。


 その右脇には第一王子ルシアス。

 左には第一王女リアーナ。

 ジグラットは大理石の床に片膝をつき、頭を垂れていた。


「……よくやった、ジグラット」


 父王の声は短く、乾いたものだった。

 報告書の内容を認めたという意味での「よくやった」であり、そこには親としての温度や誇りの色は薄い。

 まるで働きの良い役人へ告げる事務的な評価のように。


「恐悦至極に存じます、父上」


 ジグラットは定型通りの言葉を返す。

 顔は上げない。

 視線を交わす必要も、意味も、今はない。

 

 視界の端で、ルシアスの気配がわずかに動くのを感じた。


 彼は無言だった。

 氷青の瞳で、膝をつく弟を見下ろしている。


 その目には批判の色がある。

 だが同時に、完全な無関心ではない。


 王族という枠組みから外れた行動に出た弟を、観察するような視線。

 危険視と評価と、ほんのわずかな興味が混ざり合っていた。


(兄上なりに、“計算が変わった”と感じているわけか)


 ジグラットは自嘲にも似た考えを胸の内で転がす。

 リアーナは――彼の存在そのものを、まるで視界に入れようとしなかった。

 

 彼女は窓の外を見つめたまま表情を変えない。

 プラチナブロンドの髪が朝日に揺れ、聖女候補としての清廉さだけがそこに完成している。

 “問題児の第二王子”は、その絵には不要な要素だ、というように。


「下がってよい」


 父王の言葉に、ジグラットはもう一度だけ頭を垂れ、立ち上がると背を向けた。


 ◇ ◇ ◇


 廊下へ出ると、ジグラットは息を吐いた。


 胸のどこかに、冷たい水が残っているような感覚があった。

 特に期待していたわけではない。

 だがどれほど結果を出しても、温度のない評価しか返ってこない現実は、やはり骨の髄にじわりと染み込んでくる。

 深く息を吸い込み、その感覚を押し込める。


(気にする価値はない)


 心の中で切り捨てる。


 今回の目的は父王に褒められることではない。

 裏回廊の存在を公式に封印させ、自分だけが使える“裏の道”として把握すること。

 それは達成された。


(いずれここはまた“開けさせる”ことになる。その時、主導権を握るのは俺だ)


 王宮内部を密かに移動する経路。

 交渉にも、逃走にも、待ち伏せにも使える、最高の舞台装置。

 ジグラットは廊下を歩きながら、淡々と未来の駒の動かし方を思い描く。


 ◇ ◇ ◇


 部屋へ戻ると、彼は窓辺へ立ち、夕暮れの空を眺めた。

 捕縛された少女の震える声が耳の奥にこびりついて離れない。


 ――ただの荷運び役。


 彼女は末端だ。

 いくら絞ろうとも、出てくる情報には限界がある。

 本当の黒幕は別のところにいる。


 そして、あの女神官――セレスタ=ヴァルデン。


 外套の不自然な膨らみ。

 深夜の裏回廊に現れたタイミング。

 そして、あの最後の囁き。


『良い選択をなさいましたね、殿下』


 まるで自分が彼女を“見逃した”ことを知っているかのような言い方だった。

 ジグラットは無意識に拳を握りしめる。


(確証はない。だが――あれはたぶん、“同類”の匂いだ)


 自分と同じく計算で動き、表と裏の顔を使い分ける者の気配。

 そしておそらくは“王家と聖堂の間”に立って、両方の駒を操ることができる位置にいる女。

 彼女の名を、ジグラットは心の中で何度も繰り返した。


 ◇ ◇ ◇


 翌日。

 ジグラットは晩秋の謁見式の準備でごった返す宮廷の廊下を歩いていた。


 若い貴族子弟たちが自分の立ち位置を確認し合い、神官たちが儀式の段取りで忙しなく動き回っている。

 鮮やかな衣装と白い法衣が入り混じる様は、まるで舞台裏を見るかのようだ。

 その中に見慣れた栗色の髪が見えた。

 

 セレスタ。

 白い神官服を纏い、数人の神官たちと穏やかに会話を交わしている。

 笑みは柔らかく、誰が見ても「有能で信頼できる聖職者」にしか見えないだろう。


 ふとこちらへ視線を滑らせると、彼女は軽く会釈をした。

 灰色の瞳には、昨日と同じ――獲物を観察する猛禽のような光が、薄く宿っている。

 ジグラットもまた、表情を崩さぬまま、ほんの僅かに会釈を返した。


 すれ違うだけ。

 それ以上、言葉を交わすことはない。


(いずれ、もう一度正面から関わることになる)


 妙な確信だけが、胸の奥に残っていた。

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