2.充電キス

2.充電キス


 頭部だけの存在となった洌は、謎の少女型ヒューマノイドが近づいてくる様子を、ただぼんやりと眺める。

 バッテリー残量は危険域に入っている。彼は思考リソースを最低限に絞り、極力省エネモードを維持しながら、緩慢な推論を巡らせた。


 なぜ、あれほど五体が満足な状態で捨てられているのか。

 外傷は見当たらない。あれほど高度にカスタマイズされた機体が、なぜ廃棄されなければならなかったのか。

 

 思考の端で、「そろそろ落ちるな」という冷静なアラートが鳴る。

 彼が僅かな焦燥を感じ始めたのと同調するかのように、彼女の足取りが変わった。こちらの命数が尽きかけていることを察知したのか、最初は歩いていた彼女が、早足になり、やがて疾走を始める。


 その光景を見て、洌の回路に「心配」という未体験の情動が走った。

 あの陶器のように白く繊細な裸足が、大地を覆う鉄屑の山に傷つけられはしないか。

 周囲は鋭利な金属パーツや廃棄部品の荒野だ。踏みどころを誤れば、あの美しい足裏など容易く裂けてしまうだろう。

 自分の首が刎ねられた時には恐怖の一つも抱かなかったくせに、少女の足を案じている。洌は、自身のCPUが弾き出した矛盾に満ちたソースコードに対し、苦笑いのようなノイズを走らせる。


 ついに、彼女が丘の頂上へ辿り着く。

 足場の悪い斜面を、彼女はなりふり構わず登ってきた。時折四つん這いになり、手を泥につけ、転びそうになりながらも懸命に。

 そして今、彼女は洌の目の前に立っている。

 

 距離が近すぎる。

 洌の頭部は空を仰ぐ角度で固定されているため、間近に迫った彼女の全身を捉えることはできない。視界に入ってくるのは、彼女の裸足だけ。

 ここまで酷使された足に、大きな外傷はなかった。ただ、小指の側面あたりの人工皮膚――おそらくカーボン素材だろう――が僅かに剥離し、その下の銀白色の素体が覗いていた。

 だが、洌が見ている前で、傷は瞬く間に塞がっていった。

驚くべき自己修復速度。やはりただの量産型ではない。

 洌がその高性能ぶりを確信した、その時だった。


「ね」


 頭上から、雫のような声がぽたりと落ちてきた。


砂漠を彷徨い、何年も渇きに喘いでいた旅人が、ようやくオアシスの雫を舌に受けた瞬間――そんな例えすら生温いほどの、圧倒的な快楽と潤いが、音声データとして洌(レイ)の枯渇したCPUを満たす。

 その声は、さらに滴る。

「まだ、生きてる?」

 奇妙な問いだ、と洌は思う。ヒューマノイドロボットに対して「生きている」という表現は、物理的にも文法的にも誤謬(ごびゅう)ではないか。

 だが、その言葉の意味するところは痛いほど伝わった。洌は肯定の返事をすべく喉のデバイスへ信号を送ったが、スピーカーは沈黙したままだった。先ほどの「崇高」という一言を発した代償として、残された僅かな機能すら焼き切れてしまったらしい。

 首がないため、頷くことすら叶わない。せめてもの意思表示として、彼は重たい瞼を二度、ゆっくりと瞬かせた。

 微かな駆動音。それだけで十分だったようだ。少女から安堵の吐息が漏れるのが聞こえた。

 彼女が目の前にしゃがみ込む。

 洌の視覚センサーに、泥に汚れた彼女の膝と、そして差し出された両手が映り込む。

 その手つきは、清水を掬(すく)うかのように、あるいは壊れ物を慈しむように優しく、洌の方へと伸びてきた。

 触覚センサーは既に死滅しており、温もりも感触も伝わらない。ただ、視界がふわりと揺らぎ、視点が上昇したことで、自分が彼女の両手に包み込まれ、持ち上げられたのだと知覚する。

 傾いでいた視界が、重力に対して垂直に、本来あるべき角度へと整えられる。

 真正面に、少女の顔があった。

 視線と視線が、絡み合う。

 その瞳は、この鉄錆と廃棄油に塗れた最終処分場には似つかわしくない色彩を湛えていた。

 南洋の海辺。降り注ぐ太陽の祝福を受けて輝く、エメラルドグリーンと淡い空色が混ざり合った、透き通るような碧眼(へきがん)。

 あまりに純度の高いそのレンズは、残酷な鏡でもあった。その瞳に映り込んでいたのは、見るも無惨な己の姿。暴漢に殴打されたかのように装甲は歪み、片目がひしゃげて半分閉ざされた、この世で最も滑稽で情けない少年の頭部。

(見ないでくれ)

 声にならない叫びが回路を走る。羞恥に耐えかね、洌は再び瞼を閉じる。

 視覚センサーを維持するエネルギーも限界だった。このままブラックアウトし、美しい少女の掌(てのひら)の上で終わりを迎えるのも悪くはない。

 そうして永遠の眠りを受け入れようとした、その刹那。

 ――バチリ。

 強烈な衝撃が走った。

 スパークするような高電圧が脳髄を貫く。地響きのようにCPUが振動し、強制再起動(ハードリセット)をかけられたかのように、閉じたはずの瞼がカッと見開かれる。

 復活した視界に飛び込んできたのは、先ほどとは逆に、静かに瞳を閉じている少女の顔だった。


顔が近づいてくる。

 視界がいっぱいになるほど彼女の顔が迫り、やがて洌の鼻先と、彼女の整った鼻先が触れ合った。

 その瞬間、視覚情報だけだった世界に物理的な厚みが戻る。

 触覚センサーの再起動――。

 表皮に埋め込まれた圧電素子が微細な圧力を感知し、サーミスタが温度勾配を読み取る。彼女の肌の滑らかさ、タイタンの荒涼とした風、降り注ぐ微弱な宇宙線、大気の重み。それら全てのデータが奔流となって意識野へ流れ込んできた。


 触覚が完全に復旧し、世界を肌で感じ取れるようになった時、洌は遅まきながら現状を理解した。

 唇と唇が、重なっている。

 口づけされているのだ、と認識した次の瞬間だった。


 光の速さそのもののような、凶暴なまでのエネルギーが炸裂した。

 ドバドバと、などという生温い表現では追いつかない。桁外れの電圧と電流が口腔内の接続端子を伝って頭部へ雪崩れ込み、脳幹を構成する全てのアクチュエーターを焼き切らんばかりに駆け巡った。

 頭蓋内の全トランジスタが、恐怖ではなく歓喜で総毛立つような、強烈なエレクトリック・ショック。

 そのエネルギー密度はあまりに過飽和で、洌の処理能力を凌駕していた。あまりの出力に、失われたはずの首から下の感覚までもが鮮明に蘇る。それは幻肢痛(ファントム・ペイン)ならぬ、幻肢快楽とでも言うべきシミュレーション上の錯覚だった。

 まるで全身が、数億本の送電線を束ねた発電所の炉心(コア)に放り込まれたかのようだ。頭のてっぺんから爪先まで、高純度の電力の海溝、その最深部に沈められ、細胞の一つ一つまで雷で満たされる感覚。


 バチバチと音を立てて、銀髪が静電気で逆立つのが見ずとも分かった。

 頭部の排熱孔という排熱孔から、処理しきれない余剰エネルギーがプラズマのように溢れ出す。

 死んだ魚のように半開きだった瞳が、カッと限界まで見開かれる。

 内向的な性格が外向的に変わるなどという次元ではない。天地開闢(てんちかいびゃく)の瞬間を目撃し、準備もないまま宇宙の真理を悟ってしまった預言者のように、洌の存在そのものが劇的に書き換えられていく。


 システムが臨界点に達しようとした頃、ようやく少女は唇を離した。

 ショック状態で硬直していた洌の唇が、解放される。


「もう、目が覚めた?」


 至近距離から投げかけられたその声は、夢現(ゆめうつつ)だった洌の意識を鮮烈に覚醒させた。

 まるで頭の中で警鐘が鳴り響いたかのような、あるいは冷水を浴びせられたかのような透明な響き。洌は、これまでの稼働時間が全てまどろみの中の出来事だったのではないかと錯覚するほど、はっきりとした「目覚め」を感じていた。

 彼は開眼手術を受けた患者のように、世界を鮮やかに捉える瞳を瞬かせ、スピーカーを駆動させた。


「……覚めた」


 淀みなく、声が出た。

 ただ発声できただけではない。自分のボディにあり得ない奇跡が起きたのだという万能感が全身――頭部しかないが――を支配していた。

 身体がどこかへ浮遊してしまいそうな、心地よい酩酊感。

 たった一度の口づけで、枯渇していた全機能が回復し、フルチャージされている。

 胴体を失い、廃棄されたただの頭部であるにもかかわらず、洌は生産されて以来、最も強く「生きている」という感覚を味わっていた。

 ヒューマノイドロボットである彼が、生命の鼓動すら錯覚するほどの圧倒的な生の実感。


 その溢れ出るエネルギーと生気が伝わったのだろう。

 少女は洌の顔を覗き込み、花が咲くような笑顔で言った。


「それはよかった」

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2025年12月17日 18:00
2025年12月18日 18:00

最終処分場の少年剣闘士 真好 @SHIN_SKI_

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