ボービンゲンの相克 ~ナチス政権下のある夫婦の出来事~

織田 聖一 (おだ しょういち)

ボービンゲンの相克 ~ナチス政権下のある夫婦の出来事~

 ラウラ・フォン・キルシュタインは、蠟燭の火が揺れるだけの暗い寝室で唇を噛んだ。舌に血の味が滲む。


 ちょうど一年前に生まれた息子、アルベルトの処遇について夫のフランツとは、すでに話がついていたが、それをどうしても吞むことが出来ないでいた。穏やかな寝息のアルベルトを抱きかかえながら、ラウラは、二階の寝室の窓にかかったカーテンの隙間から外を覗く。


 時刻は午前三時を過ぎた。真っ暗闇のなか、庭先からまっすぐに伸びた一本道を、二台の車がやってくるのが見えた。オペル・カデットを先頭に、DKW F7が追随する。


 彼らがこの屋敷に到着したら、この家とも、夫とも、もう二度と会うことはないだろう──。


 ラウラは、祖国を離れることを決心したのだ。自分の生まれ育った祖国、慣れ親しんだ商店や町の人々の声、笑顔。思い返せば美しく、優しい面影だけが記憶をよぎる。しかし、それでもこの国から逃れねばならない。ラウラは、高貴かつ健全なドイツ国民であり、勤勉なドイツ軍人フランツ中佐の良き妻、ボービンゲンを代表するナチス女性党員であることよりも、このナチスドイツに生まれ落ちた、不幸なモンゴロイド症の可愛い息子、アルベルトの母であることを選んだのだ。


 庭の砂利を踏み分け、二台の車が止まる音がした。シュバルツ・バウアーが、不自由な右足を引きずって、オペル・カデットの助手席を降りた。ラウラは、アルベルトを抱いたまま玄関を開け、彼と共に降りてきた六人の男たちを屋敷へと招き入れる。


「ラウラ、問題は無いか?」

「ないわ。フランツは、明け方まで狩りで帰ってこないわ。アルベルトも、今日はよく寝てる」

「よし、さっさと始めよう。フランツの奴が帰ってくる前に」


 シュバルツは、引き連れてきた男たちに指示を飛ばす。一人は庭に残し、もう一人は屋上に上げて、周囲の監視を任せる。その他の者は、屋敷のなかを荒らしはじめた。


「うちにある高価な物は、ここに集めておいたわ。手間が省けるでしょう?」ラウラは、金銀、宝石が散りばめられたアクセサリーの数々が、乱雑に詰め込まれたショルダーバッグを、シュバルツへ差し出した。


「ありがたいね。これでパルチザンの活動資金も、少しは潤うだろうよ」


 シュバルツは、かつてナチス親衛隊S Sが指揮するアインザッツグルッペン《虐殺部隊》の部隊長だったが、ポーランドの反乱分子を処刑する際に、死を覚悟した反乱分子二十数名の決死の反撃を受け、右足と胸部に銃弾を受けて生死を彷徨った。幸運にも急所が外れていたために生還を果たしたが、怪我による身体能力の低下から軍を除隊し、生まれ故郷のボービンゲンへと帰ってきたのだった。


 祖国のために命を懸けようと、SSへと身を投じたが、その実態が無抵抗者の処刑だったことに嫌気がさしていた彼にとっては、願ってもない怪我と除隊だったが、眼前のポーランド人らは、無残に機関銃の前に倒れたのだった。彼らが断末魔とともに叫んだ「Wolność dla Polski !《ポーランドに自由を!》」の音が、耳から離れないでいる。


「この人たちは、どこから? 多いわね」

「いろいろだよ。フランス人もいるし、フランスまで逃げられたラッキーなポーランド人に、チェコ人、ユダヤ人もいる。全員ナチに恨みがある連中だ」

「こんなにたくさん来るなんて、聞いてなかったわ。目立ちすぎる」

「これは、君をドイツから逃がすための作戦でもあるが、同時にポーランド人から、いや、反ナチスの同胞たちからヒトラーへの贈り物でもあるんだ。」

「どういうこと?」

「俺たちは、ここでの仕事を終えたら、二手に別れる。俺と君はスイスまで走るが、残りの連中はファサン爆薬工場を爆破する」


 当初は、キルシュタイン邸の金品を奪い、犯行を物取りと誘拐に見せかけて、亡命発覚を少しでも遅らせることが目的だった。シュバルツは、そこに工場爆破の任務が追加されたという。


「そうすりゃ、もっと混乱が大きくなるし、時間も稼げるってもんだろ?」


 ラウラは、作業を進める男たちから距離を取るようにシュバルツを引き寄せ、小声になった。


「そんなのは到底無理よ。工場の警備の厳重さは知ってるでしょ? あの人たち、犬死にだわ」「そんなのは、あいつらも覚悟の上だ」さらにシュバルツが声を潜める。

「工場爆破のチャンスをチラつかせでもしないと、パルチザンから協力を得られなかったんだ。俺の足じゃ満足に運転もできん。多少のブラフ《はったり》も仕方ない」


 ラウラは、家の中でソファをひっくり返し、窓を割り、戸棚にしまってあるの品々を、乱暴に床にばら撒く男たちを改めて観察した。これまで暗闇で気がつかなかったが皆、軍人というには華奢きゃしゃで、背も低く、小柄な者が目立っていた。


「ねぇ、シュバルツ。彼ら、まだ幼いんじゃないの?」


 シュバルツは、ため息をつく。


「ああ、血気盛んな若きパルチザンだよ。みんな親を、前の俺みたいな連中に殺されたんだ。だからやる気になったんだよ、こいつらは」


 周りの騒がしさに、アルベルトがぐずりはじめた。シュバルツはアルベルトをラウラから優しく受け取り、あやしはじめる。


「ごめんな、アルベルト。騒がしいよな。でもこのガチャガチャうるさい騒音が、お前の向かう世界、自由な世界が近づく音なんだ。自由は喧騒をすり抜けて、手に入れるものなんだ」


 シュバルツの赤ちゃん言葉を交えた堅苦しい演説も拒否するように、アルベルトは泣きだした。ラウラは、家のなかを荒らされる騒音と赤子の泣く声のとめどない音の激流に、必死に堪えようと眼を閉じる。


 おそらく、シュバルツはこの幼いパルチザンの子らの正義感や、復讐心を煽ってここまで連れてきたに違いない。まともな司令官や隊長なら、大人数の兵隊が厳重に警備する爆薬工場を、こんな少人数の、しかもほとんどが子供の部隊で爆破するなんて考えないだろう。無謀過ぎる。となれば、私とアルベルト、そしてシュバルツは、彼らの犬死にを踏み越えてスイスに向かうということだ。


 分かっている。自分が亡命することで、夫のクランツは窮地に立たされるだろう。アウクスブルクにいる私の両親も、身内に反逆者が出たことで、当局に捕まるかもしれない。拷問か処刑もありうる。それでも、それでも私は、この──モンゴロイド症の──アルベルトが可愛くて堪らない。


 アルベルトは三日後、何もなければ殺される予定だった。合法的に、ナチスの掲げる正しい手続きと、崇高な理念によって。


 アドルフ・ヒトラーが統率するナチス・ドイツにおいて、優れた人種、純粋なアーリア人の血統以外は、劣等種とされて刈り取られる運命にある。アルベルトは紛れもなくその刈り取られる命を、神から与えられたのだった。


 長年、子供のできなかったラウラとフランツにやっと訪れた奇跡が、このアルベルトであった。しかし、厳格なナチス党員であり、ヒトラーの信奉者であるフランツは、父親である前にナチス党員であることを選んだ。


「ラウラ、君と僕の間には、何か悪魔のような存在が、うろついているように思えてならない。もう何年も、子供を授かろうと頑張ってきた。何度かその兆しもあったが、神はその運命を残酷にも流してしまう。そしてようやくたどり着いた結果が──」


 私は、そのときのフランツの顔を忘れない。出産に立ち会い、私の手を握ってくれたフランツの優しい眼差しと、ナチス党員として公共善ために “適切に処理” せねばならないアルベルトを見つめる二つの空洞。


 アルベルトが生まれてのち、フランツは軍務と狩りで、日々をやり過ごすようになった。アルベルトという現実と、この子を産んだ私という事実からフランツは眼を背け、逃げ出し、ナチスの掲げる正しさの鎌で、アルベルトを刈り取ろうとする。


 数日前、フランツがラウラへかけた優しい提案・・・・・が、忌々しく思い出された。



「週末から三人で、長い休みを取ろう。いつ終えるとも決めない、特別な休暇を軍には申請してある。一日目は、ヴェルタッハ川の美しい畔でピクニックだ。その日の夜は、たくさんお祈りをして僕らの未来に、幸が舞い降りることを神に願おう。二日目は……、二日目は、ヘンリク医師のところへ行こう。ヘンリク医師は、その手のことには慣れていて、すべてを、すべてのことを安らかに、手早く済ませてくれる。その日の朝食は、アルベルトの好きなプリンも食べさせて──。三日目は、何もしないで一緒に居よう。感情のなすがままに、僕たちの運命を嘆いて過ごすのもいいさ。手を握り合って……。そこからは何の予定も入れずに、パリに行きたいと思えば行こう。ウィーンに行きたいと思えば、それも良い。僕は君といれば、君がいれば……」



 その声は時折、震えていた。たしかにあなたは優しい人、その声の震えからも伝わってくるあなたの悲しみ。あなたはこのライヒ《ドイツ帝国》では正しい。でも、けれども、私はアルベルトに、明日の朝日を見せてやりたい。それも何度も、何度もの朝日を見せつづけたい。そう決心したのだ。


「よし、もう良いだろう」荒れた部屋のなかを見渡して、シュバルツは屋内の四人を玄関ホールへ集めた。あとは、誘拐の犯行声明が書かれた手紙をフランツの気がつきそうなところに置いて、この屋敷へは二度と戻らない。シュバルツは、手紙の置き場所をラウラに託した。


 ラウラは二階へと上がり、アルベルトをいつも寝かせているベビーベッドへ置いた。いよいよ、亡命が現実味を帯びて感じられた。いまは何としても、国境を跨ぐまで生き残らねば──。


 外で見張りをしていたパルチザンの青年が入ってきた。「こっちに車が向かってる。たぶん、ここの旦那だ。るか? どうする?」


 一同は、静まった。静寂の中でアルベルトのぐずる声だけが響く。


 どうする。青年たちは、手にしているピストルや短機関銃サブマシンガンを、ガチャガチャと鳴らし、一戦交える覚悟をしたようだった。次第に、車のエンジン音が大きくなる。


「待って」と小声で、ラウラは皆を制止させ「こっち」と、廊下の奥へと全員を誘導する。廊下を突き当り、床にある取っ手を掴み上げると地下に続く階段が現れた。


「小さいけど、ワイナリーよ。ここにしばらく居てちょうだい。アルベルトも一緒よ」シルクのハンカチをシュバルツに渡して、泣き声が漏れないように口を軽く塞ぐように指示する。


「おい、どうするんだ? なんて言い訳する」「なんとかするわ、けどシナリオ変更よ。若い英雄さんたちも、爆薬工場の爆破は諦めてちょうだい。みんな生きてドイツを出るの」ワイナリーの床扉が閉じ、シュバルツらは暗闇に残された。


 軍仕様車のホルヒ901が、急ブレーキで停車し、フランツが声を上げながら降りてきた。


「ラウラ! 大丈夫か? 無事かー!?」


「あなた!」とラウラも、玄関から勇み足で駆け寄る。たどたどしい足取りのフランツが、ラウラを抱きしめた。「どうした! 窓も割れて、カーテンが風でなびいてる……」怪我は無いか、何があったのか、とラウラを問いただす。フランツの吐息は、かなりの酒気を帯びている。


「私は大丈夫。男に殴られて、気を失っていたの。家を守れなくて、本当にごめんなさい。それよりこれを」ラウラは、シュバルツからの犯行声明文を手渡した。


 フランツは手紙を受け取り、封を破り開けて中に眼を通す。そこには、家屋の金目の物は盗まれたことと、息子のアルベルトが誘拐されたことが記されていた。


「『息子を返してほしくば、明日の正午、レーマー通りの古城公園に一人で来い』だと? くそったれ、反乱分子の虫けらども。僕の家に上がり込んで物取りの上に、アルベルトまで──」


 アルベルト。僕の初めての息子であり、奇跡の結晶となるはずが、モンゴロイド症の欠陥として、この神聖なライヒ《ドイツ帝国》に生まれ落ちた不運な子どもよ。できれば、僕の慈悲のなかで安らかに死なせたかったが、そうならないかもしれない。


 いや、そうならなくても良いのか? 僕がナチスの掟に従って、アルベルトを処理するよりも、テロリストの犠牲として、ナチスの尊い殉教者として、アルベルトが記録された方が、彼のために、ドイツ国民のためにもなるのではないか?


 フランツは、よたよたしながら手紙を読み終えると、くしゃくしゃにして軍服のポケットに突っ込んだ。


 しかし、家がパルチザンに襲われたとなれば、軍人として一大事であり、ナチス党員として大恥である。なれば、これを機に我がライヒへと潜入したパルチザンの連中を炙り出し、一網打尽にして挽回したい。


 見せしめとして、ワルシャワやパリの街頭で処刑も提案してやろう。幸いにもこのボービンゲンには、ポーランドでSSの虐殺部隊を指揮し、パルチザンと対峙していた経験豊かな男が、たしか元中尉の男がいたではないか。彼に協力を仰ごう。名前が、なんだったか、いまいち思い出せない。シューバインか、シュバーツ、シュバ……、シュバ……。


 思い出せないまま、フランツは庭を見回し、二台の車が停車していることに気がついた。強盗と誘拐が起こり、犯人はもうここに用がないはずだが……。なぜ、知らない車がここにある? 妻は犯人を見たのか? だとしたらどんな連中で、何人いた。一体何が──。


 直感が警戒を促していた。フランツは腰のホルスターから拳銃ワルサーPPを抜いて、辺りを警戒しながら、玄関前に辿り着いた。中を警戒しながら覗き込む。ラウラもフランツの背後につく。


「たぶんだが、犯人はまだ家の中にいる。奴らは、私が帰ってくるのが見えて、車を出せなかったんだ。君は気絶したうえに、気が動転して外に飛び出したろ? 気がつかなかったんだよ」囁くような声と臭気で、フランツはラウラに言った。


「ラウラは、ここで待っていてくれ。もし犯人をここで取り逃がしても、あるいは私がここで死んだとしても、あの、元SSだった男、ポーランド帰りの、シュバ……、シュバ―……」

「シュバルツさん?」

「そう! そうだ、シュバルツ! シュバルツ・バウアー中尉だ。彼を頼って、ポーランドのダニどもを殺す手伝いを願い出なさい」


「いや、あんたはダニに殺される、ダニ以下の人間だよ」


 声にふり返るフランツ。そこにはMP40短機関銃を構えた若いパルチザンと、その背後で、シュバルツがアルベルトを抱いて立っていた。


 仰天した顔のフランツ。声が出ず、銃を構えようにも腕が動かない。ラウラがフランツの腕を掴んでいた。


「ラウラ、おまえ!」

「シュバルツ! 撃たないで!」ラウラは、視線でシュバルツを制止させ、懸命に非力な腕力で、フランツの銃を持つ手を抑えていた。


「フランツ。お前、この子は自分の子だと思ってるだろう?」シュバルツは、フランツに近づいて言った。

「なにを……」フランツの腕の力が抜けていく。


「あんたは、自分の息子がモンゴロイド症になったことで、自分の種が異常なんじゃないかと、落ち込んだんじゃないか? それだけじゃない、ラウラとの間に長く子供ができないからって、他所でも同じことを試そうと、女を何人も作ってやがったろ?」


 フランツはラウラを一瞥したが、ラウラは黙って眼を瞑っている。拳銃を握った腕を離そうとしない。


「しかし、その女らも、ラウラとの子供がモンゴロイド症だと知れた途端に、関係を切られたってところだろ。劣等種を植え付ける男は、既に産まれた劣等種よりも問題だからな」


 フランツの表情から感情が抜け落ち、空虚さだけが残った。アルベルトを見る、二つの空洞が再び現れたのだ。


「俺は、ポーランドで陰でこそこそしてる連中と日夜、命のやり取りをしてたんだ。負傷して身体はガタガタでも、お前の浮気心なんて、出向かなくても臭ってくるぜ」


「じゃあ、アルベルトは──その劣等種のガキは──おまえのか? シュバルツ・バウアー」

「ああ、そうだ。このアルベルトは、お前の種があまりに弱いから、見かねたラウラに頼まれて、俺が仕込んだんだ」


 フランツは、全身の力が抜けたようにへたり込んだ。ラウラが握っていた腕からもピストルは抜け落ち、それをラウラは受け取った。


「だからか、だからお前はこの子を、アルベルトを持っていくのか。私から」

「安心したか? お前は手を汚さなくて済むだろ? 俺はこの子を愛してるんだ。どんな素質を持っていても」

「そうだな。この国でアルベルトにしてやれることは、安楽死か、処刑だけだ。だが……だがどうだ、ラウラは、ラウラはここに残してくれ」


 そう呟くと、フランツはとなりのラウラへと顔を向けた。空虚な空洞だったフランツの瞳が潤い、頬に一筋の透明な道を描いた。


「フランツ、もう一度……、もう一度、あの子、アルベルトの姿を見てあげて──」優しく囁くラウラ。


 その指示に素直に従うフランツ。その視線は、安らかな寝息をたてるアルベルトへと再び向かった。ラウラは、フランツの均衡のとれた美しい横顔を捉えた。彼と生きていた若き日々、何度この横顔にうっとりとしたことだろう──。


 ワルサーPPをフランツのこめかみへ向け、ラウラは、すぐさま引き金を引いた。


 パン! という32口径の小さく乾いた銃声が、闇夜の静寂を揺らした。パルチザンの青年らはどよめき、シュバルツは押し黙り、アルベルトは驚いて再び泣き出した。


「シュバルツ、紙と万年筆よ! 早く!」ラウラは、渡された紙へ何やら大急ぎで書き始めた。


「敬愛するヒトラー総統、ならびに全ナチス党員と国民の皆様へ。私は、劣等種である我が子、アルベルトを殺せなかったどころか、私の妻であり、アルベルトの母でもある、愛するラウラのわがままも、踏みとどまらせることもできず、家庭の離散を許してしまいました。その責任をここで負います」


 壁に寄りかかって微動だにしないフランツの胸元のポケットから、くしゃくしゃになったシュバルツの犯行声明を回収し、 “遺書” が書かれた紙を差し込んだ。


「大丈夫か、ラウラ。君がやる必要はなかった」シュバルツが、ラウラを気遣う。


「いえ、私でないとフランツにあそこまで近づけないでしょ。だから私じゃなきゃダメでなの。彼は──フランツは──自殺したのよ。こめかみに銃口を当てて、撃たないと不自然だわ。皮膚のやけどを作らないとね」


 ラウラの計算高さに、シュバルツは内心たじろいだ。女が母となると、こうも勇ましく変わるものか。この状況なら頼もしい存在だが、そうでなければ──。


 大急ぎで全員が車に乗り込み、キルシュタイン邸を後にした。


 ボービンゲンを離れ、ランツベルグを経て、メミンゲンに辿り着くころ、東の空の端が、うっすらと薄い琥珀色になり、暖かみを帯びた。ラウラは、徐々に昇る朝日から生の実感が伝わってくるようだった。胸に抱えたアルベルトは、あくびをしながら、手のひらを握ったり広げたりを繰り返している。


 約一時間前、はじめて人間を撃った。相手は、かつて愛していた男で、最後の最後で、私という女を選んでくれた男だった。それでも私は彼を撃った。


 彼は、アルベルトを劣勢種として、ナチスの正義の名の下に、刈り取ろうとした。私はアルベルトを守るために、愛の衝動に任せて、危険を取り去っただけ。そうでしょ? そうでもしないと、アルベルトはいまごろ──。


 愛の衝動、そんなものは噓かもしれない。ただの私のエゴだったのかも。でも本当は、なにが愛で、なにがエゴかなんて、どうでも良い。私の生きる世界にアルベルトが必要なだけ、そのためには私はこれからなんだってやるわ。


 朝日が昇りきって、心地のいい風が吹いてきたころ、古い建造物が並ぶ町、オクセンハウゼンで小休止をすることに決まった。町に続く、無舗装の砂利道の端に車を止め、シュバルツは二人の青年を連れて、食糧を求めて町に入った。


 ラウラと、残された青年らも車を降り、思い思いの場所に座ったり、芝生に寝転んだりした。日中、明るいところで彼らを見ると、やはり皆若い。彼らはもう何人も敵を、敵と見定めた人間を殺してきたのだろうか。


 アルベルトを抱えて険しい顔で彼らを眺めていたラウラに、一人の青年が話しかけてきた。


「そんな難しい顔しないで、とりあえず、いま生きてるんだから」と子供らしい声色に、拍子抜けした。「そうね、喜ばないと。そうよね」と、ラウラは何度も小さく頷いた。


「ねえ、ひとつ訊かせてほしいんだけど?」屈託のない笑顔に「ええ、いいわよ」と返事をした。


「その子は──アルベルトは──ほんとうに、シュバルツとの子なの?」


 穏やかな風と、虫たちのさえずりだけなら、心地の良い、新しい一日の始まりだったのに。


 ラウラの表情は、再び険しくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ボービンゲンの相克 ~ナチス政権下のある夫婦の出来事~ 織田 聖一 (おだ しょういち) @oda_syoichi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画