第57話 「正しさの名目」
保留は、永続できない。
前提が揺れたまま宙に浮いている状態は、一見すると衝突を避けられるが、その実、誰かの負担を静かに増やし続けるため、必ずどこかで「決着をつけたい人」を生み出してしまう。
それは、強い意志を持った人物とは限らない。
むしろ多くの場合、効率や正しさを重視する、場にとっては「頼れる人」の形で現れる。
昼休み、次の工程を決めるために集まったとき、これまで曖昧にされてきた作業がいくつか溜まっていることが、誰の目にも分かる形で表に出ていた。
「これ、いつまでにやるの?」
その問いは、純粋な確認だった。
だが、続いた言葉は、明確な方向性を持っていた。
「担当、決めないと進まなくない?」
その場にいた女子の一人が、そう言って資料をまとめ直す。
彼女は、これまでの流れを把握しており、場を回す役割を自然に引き受けてきた人物だった。
だからこそ、その言葉は重い。
「今まで通り曖昧にしてると、
結局、誰かが後で全部やることになるし」
その「誰か」という言葉が、曖昧なまま使われる。
だが、全員が同じ人物を思い浮かべていることを、陽は感じ取っていた。
彼女は、続ける。
「向き不向きもあるし、
得意な人がやった方が、
全体としては正しいと思うんだよね」
正しい。
その言葉が出た瞬間、空気が少しだけ引き締まる。
正しさは、善意よりも強い。
配慮よりも、反論しにくい。
「神代くんはさ」
その名前が出たとき、
誰かが小さく息を吸うのが聞こえた。
「無理に前に出なくていいし、
まとめ役は向いてないと思う」
言い方は、丁寧だった。
否定ではない。
評価ですらない。
最適化だった。
「だから、
ここは今まで通り、
私たちで回した方が効率いいよね」
その結論に、数人が頷く。
誰も反論しない。
反論する理由が、見当たらないからだ。
陽は、そのやり取りを聞きながら、胸の奥で静かに理解していた。
これは、排除ではない。
戻しでもない。
更新を拒否した上での確定だ。
善意や配慮が揺らいだあと、
最後に出てくるのは、
効率と正しさ。
それらは、個人の感覚よりも優先される。
だからこそ、この判断は強い。
陽は、すぐには口を開かなかった。
感情的に否定しても、意味がないことが分かっていたからだ。
「……その判断自体は、理解できます」
ゆっくりと、言葉を選んで言う。
場の視線が、一斉にこちらに集まる。
「でも、それが
『自分は関わらない前提』として
固定されるなら、
それは正しさとは別の話だと思います」
空気が、再び止まる。
今度は、前回よりも重い。
なぜなら、
正しさの名目で下された判断に、
正面から疑問を投げたからだ。
彼女は、少しだけ表情を変える。
困惑ではない。
苛立ちでもない。
「……じゃあ、どうするのが正しいと思う?」
その問いは、試すような響きを含んでいた。
正しさを語るなら、
代案を出せ、という問いだ。
陽は、その視線を受け止めながら、
すぐには答えなかった。
正しさで殴り合えば、
必ず誰かが負ける。
それは、望んでいない。
夜、ノートを開いた陽は、今日の出来事を振り返りながら、これまでで最も長い文で書き留めた。
【今日、起きたこと】
・保留は、正しさによって終わらされる
・正しさは、配置を一気に固める
・理解できる判断ほど、拒否しにくい
そして最後に、こう書く。
・正しさは、多数派の暴力として現れることがある。
陽はペンを置き、その一文から目を離さなかった。
誰も、間違っていない。
誰も、悪意を持っていない。
それでも、自分の位置は、
再び決められようとしている。
次に起きるのは、
この「正しさ」に対して、
沈黙するか、
別の基準を持ち出すか、
その選択だ。
そしてその選択は、
もう一度、
自分自身に返ってくる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます