第58話 「正しさとは別の軸」
正しさは、いつも分かりやすい。
効率、向き不向き、全体最適、問題が起きないこと――それらはどれも説明しやすく、納得もしやすく、そして何より、多くの人が同時に頷ける基準だった。
だからこそ、その場で提示された「正しさ」に、誰も即座に異を唱えられなかったし、陽自身も、それを感情的に否定する気にはなれなかった。
正しい、という判断が間違っているわけではないことを、誰よりも自分が理解していたからだ。
だが、それでもなお、胸の奥に残る引っかかりは消えなかった。
それは、この正しさが、自分について語られているにもかかわらず、自分抜きで完結しようとしていることへの違和感だった。
「どうするのが正しいと思う?」
その問いは、正論の形をしていた。
だが同時に、「正しさの土俵に乗れ」という無言の要請でもあった。
陽は、少しだけ視線を落とし、呼吸を整えてから、ゆっくりと顔を上げた。
ここで同じ土俵に立てば、必ずどちらかが負ける。
だから、別の軸を出す必要があった。
「……正しさ、だけで決めるなら」
そう前置きしてから、言葉を続ける。
「多分、今言われている判断が一番合理的だと思います」
その言葉に、場の空気が一瞬だけ緩む。
理解している、という合図だ。
だが、陽はそこで止まらなかった。
「でも、それとは別に」
声は静かだったが、はっきりと場に届いた。
「自分が関わるかどうかを、
最初から正しさだけで決められるのは、
少し違うとも思っています」
誰かが、眉をひそめる。
否定ではない。
意味を測ろうとしている表情だった。
「関わらない方が楽そう、
向いていなさそう、
問題を起こさなさそう――
そう見える理由は分かります」
少し間を置いてから、続ける。
「でも、それは
自分が選んだ結果じゃないまま、
前提になっている気がします」
場が静まる。
これはもう、作業の話ではなかった。
配置の話でもない。
選択権の話だった。
「正しさで役割を決めること自体は否定しません」
陽は、慎重に言葉を選ぶ。
「ただ、
少なくとも一度は、
自分がどう関わりたいかを
聞かれるべきだと思っています」
その言葉が落ちた瞬間、
場の空気が、はっきりと変わった。
反論でも、同意でもない。
基準がずらされた。
正しさの軸から、
当事者性と選択の軸へ。
彼女――効率を重視して話を進めていた女子は、
しばらく黙り込み、資料から顔を上げた。
「……それって」
言葉を探しながら、続ける。
「やりたいってこと?」
陽は、少しだけ首を横に振った。
「やりたい、
とも言い切れません」
正直な答えだった。
「でも、
やらないと決めた覚えもありません」
その返答に、
場の何人かが息を呑む。
それは、強い主張ではない。
だが、否定しようのない事実だった。
夜、ノートを開いた陽は、今日の出来事を振り返りながら、これまでで最も慎重に言葉を選び、長く書いた。
【今日、言語化したこと】
・正しさと選択権は別の軸
・関わらない前提は、本人の決定ではなかった
・やりたい/やりたくないの前に、選ぶ機会が必要
そして最後に、こう書き足す。
・常識は、選択肢を与えないことで人を黙らせる。
陽はペンを置き、その一文を何度も読み返した。
これまで自分が感じてきた違和感は、
すべてこの一点に収束している気がした。
選ばなかったのではない。
選ばされなかった。
次に起きるのは、
この言葉が
「面倒な主張」として処理されるのか、
それとも
前提を更新する材料として受け取られるのか、
その反応だ。
そしてその反応は、
もう個人の善意や正しさでは決まらない。
集団が、
どこまで「当事者」を認めるかという問題になる。
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