第55話 「当事者として扱われる」
説明は、その場で完結しなかった。
むしろ、説明されたことで初めて、この場に「当事者」という役割が生まれてしまい、その役割が誰のものなのかを巡って、空気が静かに動き始めているのを、陽ははっきりと感じ取っていた。
他校の彼女は、陽の言葉を聞いたあと、それ以上その場で踏み込むことはしなかったが、話を終わらせようともせず、全体の作業を進めながらも、時折こちらに視線を向け、状況の把握を続けている様子だった。
その視線は、評価ではない。
警戒でも、同情でもない。
ただ、「関係者として扱っている」という一貫した距離感を保っていた。
作業の途中、資料の整理について相談が出たとき、彼女は自然な流れで陽の名前を呼んだ。
「神代くん、この部分、どうなってましたっけ」
その呼び方には、特別な意味づけはない。
だが、これまでの配置においては、明確に異質だった。
陽は一瞬だけ周囲を見回し、自分に向けられている視線の質が変わっていることを理解した。
助け舟を出そうとする視線もあれば、様子を窺うような視線もあり、そして何より、「どう答えるのか」を待つ視線が、確かにそこにあった。
「……ここは、前回の打ち合わせで一度修正しています」
陽は、事実だけを選び、簡潔に答えた。
それ以上でも、それ以下でもない。
彼女はその説明を聞き、すぐに頷きながら、「ありがとう」と短く返し、何事もなかったかのように作業を進めた。
空気が、わずかに動く。
誰かが慌てて配置を修正することもなく、誰かが止めに入ることもない。
ただ、「今のやり取りが成立してしまった」という事実だけが、その場に残った。
陽は、その成立の仕方に、これまでとは違う種類の緊張を覚えていた。
これは反発でも、逸脱でもない。
ただ、前提を共有していない相手とのやり取りが、そのまま成立してしまうという現象だった。
放課後、作業が一段落したあと、彼女は特に構えることなく、陽の隣に立ち、資料を片付けながら言った。
「さっきの話、変に聞こえたらごめんなさい」
その前置きは、謝罪というより、対話を続けるための確認だった。
「でも、本人がどう思ってるかって、結構大事だと思ってて」
陽は、その言葉にすぐ返事をせず、ほんの少しだけ考えた。
この人は、説明を求めているのではない。
納得のための物語も、誰かを安心させる言葉も、必要としていない。
ただ、当事者の認識を、そのまま知ろうとしている。
「……自分でも、まだ整理できていません」
そう答えると、彼女は驚いたような顔をすることもなく、「そっか」と静かに頷いた。
「じゃあ、無理にまとめなくていいですね」
その言葉は、これまで何度も聞いてきた「無理しなくていい」とは、まったく別の響きを持っていた。
配置を固定するための免罪符ではなく、未確定であることをそのまま許容する言葉だったからだ。
陽は、その違いを、はっきりと感じ取っていた。
夜、ノートを開いた陽は、今日の出来事を振り返りながら、いつもより慎重に言葉を選んで書いた。
【今日、起きた変化】
・前提を知らない相手とは、配置が自動で決まらない
・当事者として扱われると、答えを保留できる
・説明しないことと、曖昧でいることは違う
そして最後に、少し迷ってから、こう書き加えた。
・当事者であることは、発言する義務ではなく、選択肢を持つことだった。
陽はペンを置き、その一文を静かに読み返した。
これまで自分が避けてきたのは、発言ではなく、当事者性そのものだったのかもしれない、という考えが、遅れて胸の奥に落ちてくる。
次に起きるのは、この「当事者として扱う視線」が、周囲にどう波及するのかという問題だ。
前提を更新するのか、それとも例外として切り分けるのか。
その分岐は、もう個人の内側だけでは完結しない。
だが少なくとも、今ははっきりしている。
自分はもう、
ただ「気を遣わせない人」ではいられない。
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