第54話 「説明する役目」

  前提のズレは、沈黙のままでは終わらなかった。


 あの場で彼女が首を傾げた瞬間から、空気の中には「何かを説明しなければならない」という圧が生まれており、それは誰か一人が背負えば済むものではなく、場にいる全員が薄く感じ取っている種類の違和感だった。


 「無理しなくていい」という言葉が通じなかったこと自体が、その圧の正体をはっきりさせていた。


 それは配慮として完成していたはずの言葉が、外部の視線によって意味を失い、ただの曖昧な免罪符として宙に浮いてしまった瞬間でもあった。


 「……えっと」


 誰かが、言葉を探すように声を出す。


 その声は、説明を始めようとするものだったが、同時に「誰が説明するのか」を探っている響きも含んでいた。


 説明とは、責任を引き受ける行為だ。


 しかも今回は、単なる作業手順ではなく、人の扱い方についての説明だった。


 陽は、その空気をはっきりと感じながら、自分が視線の集まる位置に立たされていることに気づいていた。


 前提を知らない彼女の視線と、前提を共有してきた周囲の視線が、ちょうど交差する場所に、自分が立っている。


 「神代くんは……」


 誰かが、言いかけて止まる。


 続く言葉を選びあぐねているのが、声の調子から分かった。


 「前に出るのが、あまり得意じゃなくて」


 最終的に出てきた説明は、柔らかく、角の取れたものだったが、その実、これまで積み上げられてきた配置を一文で要約しただけの言葉でもあった。


 彼女は、その説明を聞きながら、すぐには頷かなかった。


 納得していないわけではない。


 ただ、それが「事実の説明」なのか、「扱い方の説明」なのかを、慎重に見極めようとしているように見えた。


 「……本人は、どう思ってるんですか?」


 その問いは、自然に、そして逃げ道を塞ぐ形で出された。


 場の空気が、わずかに引き締まる。


 説明が、本人抜きで完結しないことが、ここで初めて明確になった。


 陽は、すぐには答えなかった。


 言葉を探していたわけではない。


 この問いが、これまで避け続けられてきた種類のものだということを、はっきりと理解していたからだ。


 「……自分は」


 ゆっくりと口を開く。


 「前に出ない方が楽だと、思われていること自体は、間違いじゃないと思います」


 一度、息を置いてから続ける。


 「でも、それが理由で最初から選択肢から外れているなら、それは説明されるべきだとも思います」


 言い終えたあと、陽は自分の心拍数が少し上がっているのを感じていた。


 反論でも、主張でもない。


 ただ、状況を正確に言語化しただけだ。


 彼女は、その言葉を聞いて、今度ははっきりと頷いた。


 「なるほど」


 その一言には、同意というより、理解に近い響きがあった。


 一方で、周囲の空気は、微妙に重くなっていた。


 説明が一段階、深いところまで踏み込んでしまったからだ。


 夜、ノートを開いた陽は、今日の出来事を振り返りながら、以前よりも少し長い文で書き留めた。


 【今日の記録】


 ・前提を知らない人が来ると、説明が必要になる


 ・説明は、本人の立場を発生させる


 ・立場が生まれると、配置は揺れる


 そして、最後にこう書いた。


 ・説明する役目を引き受けた瞬間から、もう元の位置には戻れない。


 陽はペンを置き、その一文の意味を静かに反芻していた。


 説明しないことで守られてきた配置は、説明した瞬間から別のものに変わる。


 次に起きるのは、この説明が「例外」として処理されるのか、それとも「前提の更新」につながるのか、その選別だ。


 そしてその判断は、またしても、個人ではなく多数の側に委ねられる。

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