第53話 「前提を知らない人」

 「前提を知らない人」


 その人は、

 最初から違っていた。


 特別な態度を取ったわけではない。


 声が大きいわけでも、

 強引なわけでもない。


 ただ、

 前提を知らなかった。


 午後の時間、

 他校との合同企画の最終確認のため、

 数人が集まって小さな打ち合わせをすることになった。


 そこには、

 これまであまり関わりのなかった他校の女子が一人、

 初めて加わっていた。


 彼女は、

 流れを把握しようと、

 全員の顔を順に見渡してから、

 自然な調子で言った。


 「じゃあ、

  今までの経緯をまとめてもらっていいですか?」


 その問いに、

 場が一瞬だけ止まる。


 誰かが答えようとして、

 視線が迷う。


 そして、

 反射的に陽の方を見る人がいた。


 陽は、

 その視線を受け取りながら、

 すぐには口を開かなかった。


 これまでなら、

 ここで誰かが

 「神代くんはいいよ」

 と言って流していた。


 だが、

 その言葉は出なかった。


 彼女は、

 陽の沈黙を待つことなく、

 首を傾げる。


 「……あれ?」


 困惑ではない。


 純粋な確認だった。


 「誰かがまとめ役じゃないんですか?」


 その問いは、

 善意でも、

 配慮でもなく、

 単なる業務上の疑問だった。


 誰も、

 すぐに答えられない。


 なぜなら、

 この場ではすでに

 「まとめ役を決めない」という

 暗黙の配置が成立していたからだ。


 陽は、

 その空白を感じ取り、

 ゆっくりと口を開いた。


 「……特に、

  決めてはいません」


 事実だった。


 彼女は、

 その答えを聞いて、

 少しだけ考える。


 「じゃあ、

  今ここにいる人の中で、

  一番状況分かってる人が

  やった方が早いですよね」


 そう言って、

 迷いなく陽を見る。


 その視線には、

 期待も、

 評価も、

 警戒もなかった。


 ただ、

 合理性だけがあった。


 陽は、

 その瞬間、

 自分の中で

 何かが引っかかるのを感じた。


 この人は、

 自分を

 「気を遣わせない人」

 として見ていない。


 「外れる前提の人」

 としても扱っていない。


 ただ、

 そこにいて、

  分かっていそうな人

 として見ている。


 周囲が、

 その視線に

 戸惑う。


 誰かが、

 慌てて言った。


 「えっと……

  神代くんは、

  無理しなくていいから」


 その言葉は、

 これまで何度も使われてきた

 安心のフレーズだった。


 だが、

 彼女はそれを聞いて、

 少しだけ眉をひそめる。


 「無理って、

  どういう意味ですか?」


 責める口調ではない。


 ただ、

 意味が分からないという顔だった。


 その瞬間、

 場の空気が

 目に見えて揺れる。


 説明が、

 通じない。


 これまで当然だった前提が、

 外から来た一人には

 共有されていない。


 陽は、

 その揺れの中で、

 初めてはっきりと感じていた。


 自分の配置は、

 世界の常識ではない。


 この場で、

 たまたま作られ、

 たまたま維持されてきただけの

 ローカルな普通だ。


 夜、ノートを開いた陽は、

 今日の出来事を思い返しながら、

 少し長めに書いた。


 【今日、分かったこと】


 ・前提は、共有されていないと通じない


 ・共有されていない前提は、説明が必要になる


 少し間を置いて、

 最後にこう書き足す。


 ・普通は、内側にいると絶対に見えない。


 陽はペンを置き、

 あの女子の

 首を傾げた表情を思い出していた。


 誰かが悪いわけではない。


 ただ、

 同じ前提を

 持っていなかっただけだ。


 次に起きるのは、

 この前提のズレが、

 どちらに合わせられるのか

 試される瞬間だ。


 内側が外側に合わせるのか。


 それとも、

 外側が内側に取り込まれるのか。


 その分岐点に、

 陽は立っている。

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