第52話 「何も起きていない日」

  その日は、何も起きなかった。


 だからこそ、はっきりと分かった。


 朝の教室は、いつもと変わらない騒がしさで、

 席に着けば誰かの会話が耳に入り、

 授業が始まれば自然と空気が切り替わる。


 昨日のことを話題にする人はいない。


 沈黙もない。


 違和感も、表には出ていない。


 すべてが、

 元通りに見えた。


 昼休み、女子たちが集まって話し始めたときも、

 陽はいつもの位置にいた。


 近すぎず、

 遠すぎない。


 声をかければ応じるが、

 こちらから割り込むことはない距離。


 誰も、それを不自然だとは思わない。


 「これ、どうする?」


 話題が仕事に近い内容に移ったとき、

 陽の方を見る視線は、ほとんどなかった。


 だが、完全に無視されているわけでもない。


 「神代くんは、いいよね」


 誰かがそう言う。


 「無理しなくていいし」


 その言葉は、

 判断の代替だった。


 参加を求めない理由を、

 わざわざ確認しなくても済む、

 便利な言葉。


 陽は、その場で何も言わなかった。


 言う必要がないからだ。


 もう、結論は共有されている。


 放課後、準備作業が始まっても同じだった。


 誰かが指示を出し、

 誰かが動き、

 陽は、その流れの外側で

 邪魔にならない仕事だけを拾っていく。


 それを、

 誰も止めない。


 誰も、特別に感謝しない。


 それが、

 この配置の完成形だった。


 夜、ノートを開いた陽は、

 今日一日を振り返り、

 しばらく何も書けずにいた。


 出来事が、ない。


 否定も、衝突も、

 沈黙すらない。


 ただ、

 淡々と日常が進んだだけだ。


 やがて、ペンを取り、

 短く書いた。


 【今日】


 ・何も起きなかった


 少し間を置いて、

 もう一行、書き足す。


 ・何も起きないことが、結果だった。


 陽はペンを置き、

 その言葉を静かに眺めた。


 選ばれなかったわけではない。


 拒否されたわけでもない。


 ただ、

 選ぶ必要がなくなった存在として

 扱われている。


 それは、

 とても穏やかで、

 とても安全で、

 とても完成された状態だった。


 だからこそ、

 ここから動くには、

 これまでよりも

 ずっと大きな力が必要になる。


 次に起きるのは、

 この「何も起きない日常」が、

 外側から揺さぶられる瞬間だ。


 それは、

 悪意ではない。


 事件でもない。


 ただ、

 この配置を前提にしない誰かが、

 現れるだけだ。

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