第50話 「止まる」

 それは、もう偶然ではなかった。


 合同準備の最終日、作業は終盤に差しかかり、全体としては「あとは流すだけ」という雰囲気が教室を満たしていた。


 細かい調整は残っているが、誰もそれを問題だとは思っていない。


 これまで通りにやれば、何も起きない。


 陽は、その空気をはっきりと感じ取っていた。


 だからこそ、分かっていた。


 ここで何もしなければ、

 昨日までと同じ位置に戻る。


 違和感は吸収され、

 像は修復され、

 自分はまた「気を遣わせない人」に戻る。


 その未来が、あまりにも自然に見えていた。


 「これで大体、終わりかな」


 誰かがそう言ったとき、

 場はそのまま次へ進もうとした。


 その瞬間、

 陽は一歩、前に出た。


 それだけで、

 空気が少し変わる。


 前に出る、という行為自体が、

 これまでの像から外れていたからだ。


 「……一つ、確認してもいいですか」


 声は、いつもより少しだけ大きかった。


 だが、強くはない。


 問いの形をしていた。


 誰かが、反射的に答えようとして、止まる。


 確認、という言葉が、

 これまでの流れに含まれていなかったからだ。


 「今の役割分担だと、

  自分は、最初から外れている前提になっています」


 言葉は、慎重に選んだ。


 責める調子でも、

 抗議でもない。


 事実の確認として、

 そのまま置いた。


 沈黙が落ちる。


 誰も、すぐに言葉を返せない。


 否定も、肯定もできない。


 なぜなら、それは否定しにくい事実だったからだ。


 誰かが、困ったように笑う。


 「……そんなつもりは、なかったけど」


 その言葉は、善意だった。


 だが、陽はそこで引かなかった。


 「分かっています」


 短く、はっきり言う。


 「ただ、

  そう扱われていること自体は、

  間違いではないと思います」


 空気が、完全に止まった。


 誰も、すぐには次の言葉を出せない。


 今までなら、

 ここで誰かが話題を変え、

 なかったことにしてきた。


 だが、今回は違った。


 言葉が、

 記録されてしまったからだ。


 否定も、上書きも、

 まだされていない。


 ただ、

 全員が同じ事実を、

 同じ場所で見ている。


 「……どういうつもり?」


 誰かが、慎重に聞いた。


 責める声ではない。


 だが、

 これ以上は流せない、という響きだった。


 陽は、その問いを正面から受け止めた。


 「外れること自体が問題だとは思っていません」


 少し間を置いて、続ける。


 「でも、

  外れる前提が共有されているなら、

  それは確認されるべきだと思いました」


 それ以上、言わなかった。


 説明もしない。


 正当化もしない。


 ただ、

 確認したかった事実だけを置いた。


 沈黙が、再び落ちる。


 だが今回は、

 居心地の悪さを含んだ沈黙だった。


 夜、ノートを開いた陽は、

 今日の出来事を思い返しながら、

 いつもより短く書いた。


 【今日、起きたこと】


 ・前に出た


 ・事実を言った


 ・空気が止まった


 そして、その下に、

 一行だけ書き足す。


 ・普通は、事実を突きつけられると止まる。


 陽はペンを置き、

 その一文を静かに受け止めていた。


 もう、なかったことにはできない。


 誰かがどう処理するかは、

 これから決まる。


 だが少なくとも、

 この瞬間だけは、

 自分の像は宙に浮いている。


 次に起きるのは、

 この事実が

 「説明」に回収されるのか、

 それとも

 配置の見直しにつながるのか、

 その分岐だ。


 そしてその選択は、

 自分ではなく、

 周囲の「普通」に委ねられる。

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