第41話 「言葉になる前」

  彼女は、その問いをすぐには誰にも話さなかった。


 昼休み、女子たちが集まっている輪の中にいても、彼女は昨日のことを話題に出すことはなく、いつも通りに笑い、相槌を打ち、流れに身を置いていた。


 だが、陽の方を見る回数だけが、ほんの少し増えていた。


 意識して見ている、というよりも、確認してしまう、という方が近い視線だった。


 「ねえ、聞いてよ」と誰かが言い出し、別の話題が始まったときも、彼女は話を聞きながら、頭の片隅で別のことを考えていた。


 ――神代くんは、どうしてああなんだろう。


 その問いは、形にならないまま残っていた。


 放課後、委員会の準備で集まったとき、女子の一人が作業の合間に何気なく言った。


 「神代くんってさ、ほんと大人しいよね」


 その言葉に、数人が軽く頷く。


 「うん」


 「落ち着いてるよね」


 いつも通りの評価。


 ここまでは、これまでと変わらない。


 だが、そこで彼女が、ほんの少しだけ言葉を足した。


 「……でもさ」


 一瞬の間。


 誰かが続きを促すでもなく、否定するでもなく、ただ視線が集まる。


 「静か、っていうより」


 彼女は言葉を探すように、少しだけ視線を逸らした。


 「考えてない感じでも、ないよね」


 その言い方は、断定ではなかった。


 意見とも違う。


 ただ、引っかかりをそのまま置いたような響きだった。


 「え?」


 誰かが、素直に聞き返す。


 「どういうこと?」


 彼女は、すぐに答えられなかった。


 説明しようとすると、言葉が足りないことに気づいてしまったからだ。


 「うーん……」


 しばらく考えてから、こう言った。


 「何も言わないけど、何も考えてないわけじゃなさそう、っていうか」


 言い終えたあと、自分でも少し曖昧だと感じたのか、彼女は小さく笑った。


 「ごめん、上手く言えない」


 その場は、それで終わった。


 「まあ、でも問題起こさないしね」


 別の女子がそう言って、話は自然に元の流れへ戻っていく。


 違和感は、まだ評価を上書きできない。


 ただ、隙間に入り込んだだけだった。


 陽は、その会話を少し離れた場所で聞いていた。


 自分について語られていることは分かったが、そこに向けられている感情が、肯定とも否定ともつかないため、どう反応すればいいのか分からなかった。


 だから、何も言わなかった。


 だが、彼女の言葉が、確かに周囲の空気を一瞬だけ変えたことも、はっきりと感じていた。


 夜、ノートを開いた陽は、今日の出来事を思い返しながら、昨日のページの続きを静かに書いた。


 【続き】


 ・違和感は、言葉にされると形が歪む


 ・形が歪むと、すぐには共有されない


 少し間を置いて、さらに書き足す。


 ・だが、共有されなかった違和感も、消えたわけではない。


 陽はペンを置き、昼休みの彼女の言い淀む様子を思い出していた。


 あの言葉は、まだ誰の立場も変えていない。


 だが、誰かの認識には、確かに小さな傷を残している。


 それは、すぐに問題になるようなものではない。


 ただ、同じ説明を繰り返すたびに、少しずつ噛み合わなくなっていく。


 そしてそのズレが、いつか「説明の限界」として現れる。


 そのとき初めて、これまでの前提が問い直されることになる。


 まだその段階ではない。


 だが、もう戻ることもできなかった。

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