第39話 「引っかかりは、共有されない」
その違和感は、声にはならなかった。
昼休み、いつものように教室の一角に集まっていた女子たちの輪の中で、陽は特別な役割もなく、ただそこに座って話を聞いていた。
話題は、次の行事のことや、最近の授業の愚痴で、誰が何を言っても大きく空気が変わることはなく、全体としては穏やかに流れていた。
その中で、一人だけ、少し遅れて反応する女子がいた。
彼女は、誰かが言葉を発した直後にすぐ同意することもなく、否定することもなく、ほんの一拍置いてから視線を動かす癖があった。
「神代くんってさ」と、別の女子が言ったときも、彼女はすぐには頷かなかった。
「ほんと、問題起こさないよね」
その言葉が出た瞬間、数人が軽く笑いながら同意し、話はそれで終わったはずだった。
だが、その女子だけは、陽の方を一度だけ見てから、視線を机に落とした。
「……問題が、起きない?」
小さな声だった。
誰かに向けた問いというより、自分の中で確かめるような呟きだった。
当然、その声は会話に回収されなかった。
「まあ、余計なことしないしね」
「安心感あるよね」
言葉は上書きされ、違和感は形を持たないまま消えていく。
陽は、そのやり取りを聞きながら、彼女の呟きをはっきりと認識していた。
だが、それについて何かを言おうとは思わなかった。
言葉にすれば、空気が変わる。
空気が変われば、その違和感は「問題」として扱われる。
放課後、委員会の作業中、陽が資料をまとめていると、その女子が隣に来て、必要最低限の距離を保ったまま立った。
「これ、数合ってる?」
事務的な確認。
陽は数字を見て、「合ってる」と短く答える。
「そっか」
それだけで、会話は終わった。
それ以上、踏み込まれることはなかった。
だが、去り際に、彼女はほんの一瞬だけ立ち止まり、言葉を選ぶように口を開いた。
「……神代くんって、何も考えてないわけじゃ、ないよね」
問いというより、確認だった。
陽は、その言葉に対して、少しだけ間を置いた。
「……考えてないことは、ないです」
それ以上、付け加えなかった。
彼女はそれを聞いて、なぜか少し安心したように小さく息を吐き、「だよね」とだけ言って離れていった。
その会話は、誰にも共有されなかった。
後から話題に上ることもなかった。
ただ、確かに起きて、確かに終わった。
夜、ノートを開いた陽は、今日の出来事を思い返しながら、しばらく何も書けずにいた。
【今日のこと】
・違和感を向けられた
・言葉にされなかった
・共有されなかった
その下に、少し迷ってから、こう書き足す。
・違和感は、共有されなければ存在しないのと同じになる。
陽はペンを置きながら、昼休みに聞いたあの呟きを思い出していた。
問題が起きない、という評価は、便利で、優しくて、誰も傷つけない。
だからこそ、そこから外れた感覚は、扱われない。
それは否定もされず、肯定もされず、ただ通り過ぎる。
だが、確かに誰かの中には残る。
その「残り」が積み重なったとき、初めて形になるのだということを、陽はまだ知らなかった。
この時点では、ただ一つだけ分かっていた。
自分はもう、完全に無自覚なままではいられない場所に、足を踏み入れ始めている。
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