第38話 「問題が起きない人」

 それは、話し合われたわけではなかった。


 誰かが提案したわけでも、確認したわけでもなく、ただ気づいたときには、そういう前提がそこに置かれていた。


 昼休み、教室の一角で女子たちが集まって話している中に、陽は特別呼ばれたわけでもなく、拒まれたわけでもなく、自然に混ざっていた。


 誰かがスマホを見せながら「これどう思う?」と聞き、別の誰かが「微妙じゃない?」と返し、話題が次々に移り変わっていく中で、陽は聞かれたことにだけ短く答え、それ以上踏み込むことはなかった。


 「神代くんはさ」と、一人の女子が何気なく言い出したときも、特別な前振りはなかった。


 「意見は言うけど、空気壊さないよね」


 それは評価というより、確認に近い言い方だった。


 「うん」と別の女子がすぐに頷く。


 「変に張り切らないし」


 「余計なこと言わないし」


 言葉は、少しずつ重なっていく。


 陽は、そのやり取りを聞きながら、口を挟まなかった。


 否定する理由も、肯定する理由もなかったからだ。


 「だからさ」と、最初に話し始めた女子が続ける。


 「一緒にいて楽なんだよね」


 その言葉に、場の空気が少しだけ柔らぐ。


 誰も反論しない。


 誰も深掘りしない。


 それで、話題は別の方向へ流れていった。


 陽は、その流れの中で、自分について語られた言葉が、すでに“本人のいないところでも通用する説明”になっていることに、まだ気づいていなかった。


 放課後、委員会の作業中に小さなトラブルが起きたときも、その認識は何の違和感もなく使われた。


 「これ、どうする?」


 誰かがそう言ったあと、自然と視線が別の女子に向かい、陽の方には向かなかった。


 だがそれは、頼られていないというよりも、「混乱させない人だから」という理由による選択だった。


 「神代くんは大丈夫だから、こっちで決めよ」


 その一言に、誰も異を唱えない。


 陽自身も、その言葉を特別なものとして受け取らず、言われた通りに資料をまとめ、指示された作業を続けていた。


 その夜、ノートを開いたとき、陽は今日の出来事を思い返しながら、なぜか昼休みの会話が頭から離れなかった。


 【今日、言われたこと】


 ・空気を壊さない


 ・余計なことを言わない


 ・一緒にいて楽


 書き終えたあと、しばらくペンが止まる。


 それらの言葉が、褒め言葉なのか、配置の説明なのか、その境目がまだ見えなかった。


 ただ一つだけ、はっきりしていたのは、どの言葉にも「期待」や「役割」が含まれていなかったということだ。


 それは安心であり、同時に、何も始まらない位置でもあった。


 陽はノートを閉じながら、自分が“問題を起こさない人”として理解されていることを、まだ違和感として認識できずにいた。


 問題が起きないということは、問題に数えられないということでもある。


 その意味が形になるのは、もう少し先の話だった。

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