第37話 「普通の距離に、疑問はなかった」
教室に入ったとき、陽は自分が女子に囲まれて座ることに、これまで一度も違和感を覚えてこなかったことを、当然のこととして受け入れていた。
それを特別だと意識する理由も、この世界では与えられていなかった。
前後左右に座っているのは女子ばかりで、昼休みになれば自然とそのまま会話が続き、誰かが飲み物を買いに行くと言えば「ついでにこれお願い」と声が飛び、陽がそれを受け取ることも、断ることもなく、ただ流れとして成立していた。
「神代くん、今日の数学のプリント見た?」と隣の席の女子が声をかけてきたときも、そこには含みも警戒もなく、ただ“近くにいて、話しかけるのに都合がいい相手”という扱いが、そのまま形になっているだけだった。
陽はプリントを取り出しながら「まだちゃんとは見てない」と答え、その返事に対して彼女が「じゃあ一緒に確認しよ」と言ってくることも、特別な出来事として記憶されることはなかった。
この世界では、男子が女子と距離を取る理由がない。
女子が男子を警戒する必要もない。
むしろ距離を取る方が「よく分からない」「何を気にしているのか分からない」と受け取られるため、陽がこうして自然に輪の中にいることは、ごく平均的な立ち位置だった。
実際、クラスの女子たちは陽に対して、期待も欲望も向けていなかったが、それと同時に排除や無関心を向けているわけでもなく、必要があれば話しかけ、用事があれば頼み、特に何もなければ放っておく、という距離感を当たり前のように共有していた。
放課後、委員会の準備で残ることになったときも、作業の中心にいるのは女子で、陽はその補助として呼ばれ、資料を運んだり、黒板に書かれた内容を写したりといった役割を、疑問を挟むことなく引き受けていた。
「神代くん、これ重いから持って」と言われれば黙って受け取り、「それ、向こうに置いておいて」と言われれば言われた通りに動く。
その一つ一つに上下関係や支配の意識はなく、ただ「そうした方が全体が早く終わる」という合意が、無言のまま成立しているだけだった。
陽自身も、それを不当だと感じたことはなく、むしろ自分がこの位置にいることで空気が円滑に回っているのなら、それでいいと考えていた。
その考え方自体を疑う理由も、まだ持っていなかった。
だが、その日の帰り際、女子の一人が何気なく言った「神代くんって、ほんと安心だよね」という言葉が、陽の中にわずかな引っかかりを残した。
安心、という言葉が意味するものを、その時点ではまだ言語化できなかった。
だがそれが「頼りになる」とも「信用できる」とも少し違う響きを持っていたことだけは、なぜか記憶に残ってしまった。
家に帰り、制服を脱ぎながら、陽は今日一日を思い返し、自分が女子と関わらない場面をほとんど思い出せないことに気づいた。
それでも、それを異常だと感じる感覚は、まだ芽生えていなかった。
この世界では、それが普通だった。
普通である以上、疑問は必要ない。
そして、疑問が必要になるときは、たいていの場合、何かが少しだけ噛み合わなくなった後にやってくる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます