第31話 「書かれた瞬間」

 それは、紙一枚だった。


 だが、

 今までとは決定的に違った。



 朝、掲示板に貼られていた。


 【校内活動における自主行動の取り扱いについて】


 タイトルは、

 丁寧で、

 中立的だった。



 内容は、こうだ。


 ――学級活動・清掃・委員業務は、

  事前に定められた役割に基づいて行うこと

 ――役割外の行動を行う場合は、

  必ず事前に教員の許可を得ること

 ――無断での自主行動は、

  指導の対象となる場合がある


 「場合がある」。


 逃げ道のようで、

 実は一番強い言葉。



 それを読んだ瞬間、

 陽は分かった。


 ――これで、

  行動は完全に管理される。



 教室では、

 誰も声を上げなかった。


 「まあ、

  そりゃそうだよね」

 「混乱するし」

 「ちゃんとしたルールだと思う」


 それらは、

 納得ではない。


 安心だった。



 真白は、

 掲示板の前で立ち止まったまま、

 しばらく動かなかった。


 「……書かれちゃったね」

 「……うん」


 それ以上、

 言葉は続かない。



 問題は、

 その日の午後に起きた。


 清掃の時間。


 篠宮が、

 自分の担当区域を終えたあと、

 床に落ちた紙屑を拾った。


 それだけ。


 ほんの、

 一歩分の移動。



 「篠宮」


 声をかけたのは、

 保護委員の生徒だった。


 「そこ、

  担当外じゃない?」


 言い方は、

 柔らかい。


 だが、

 記録の声だった。



 「……落ちてたから」

 篠宮は、

 そう答えた。


 「一応」

 保護委員は、

 笑顔のまま言う。

 「次から、

  先生に言ってからにして」


 言ってから。


 篠宮は、

 一瞬だけ陽を見た。


 陽は、

 何も言えなかった。



 その日の放課後。


 篠宮が、

 呼ばれた。


 短い「確認」。


 長い「記録」。



 翌日。


 連絡事項として、

 椎名が淡々と告げた。


 「昨日、

  役割外行動が一件ありました」


 一件。


 名前は出ない。


 「悪意があったわけではありません」

 「ただ」

「ルールが明文化された以上、

全員が守る必要があります」


 守る必要。



 教室は、

 静かだった。


 誰も、

 篠宮を見ない。


 それが、

 最も完成された処理だった。



 休み時間。


 篠宮が、

 低い声で言った。


 「……な」

 「……」

 「紙に書かれた瞬間、

 アウトだ」


 「……うん」


 「昨日まで、

 問題じゃなかったことが」

「……」

「今日から、

 違反になる」


 それが、

 常識の正体だった。



 夜。


 陽は、ノートを開く。


 【起きたこと】

 ・ルールの明文化

・初めての違反


 【分かったこと】

・書かれた瞬間、逃げ場は消える

・善意は、違反理由にならない


 【確信したこと】

・常識は、後から貼られる


 最後に、

 静かに書く。


 ・世界は、先に動いてから、正しさを決める。


 問いは、

 もう十分に示された。


 行動も、

 限界まで縮められた。


 次に残っているのは、

 選択だけだ。


 守る側に戻るか。

 違反者になるか。

 それとも――

 ルールそのものを、別の形で使うか。


 陽は、

 ノートを閉じた。


 終わりは近い。


 だが、

 結論はまだ、

 出ていない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る