第22話 「いい子のまま、困らせる」

 最初の実践は、拍子抜けするほど簡単だった。


 だからこそ、

 あとから効いてくる。



 その日は、週二回の面談の日だった。


 第三相談室。

 東堂と向かい合う。

 いつも通りの配置。

 いつも通りの空気。


 「こんにちは、神代くん」

 「……こんにちは」


 「では、始めましょう」


 ここまでは、

 完璧な“いつも通り”。



 「最近、不安定な出来事はありましたか?」

 「……分かりません」


 東堂のペンが、止まった。


 「分かりません、というのは?」

 「自分では、判断できなくて」


 声は、穏やか。

 態度も、協力的。


 拒否していない。

 反抗もしていない。


 ただ――

 判断を、渡した。



 「判断できない、という状態が」

 東堂は、慎重に言葉を選ぶ。

 「不安定さの表れかもしれませんね」


 来る。

 そう思った。


 「そうなんですね」

 陽は、素直に頷く。

 「じゃあ、どう判断すればいいですか」


 東堂の視線が、

 一瞬だけ泳いだ。



 「……状況を整理しましょう」

 「はい」


 「最近、誰かと衝突しましたか?」

 「分かりません」

 「強い感情を向けましたか?」

 「分かりません」

 「考え込みすぎていませんか?」

 「……それも、分かりません」


 すべての質問に、

 同じ答え。


 分からない。



 それは、

 拒否ではない。


 だが、

 前に進まない。



 「神代くん」

 東堂は、声の調子を少し変えた。

「分からない、という答えが続くと、

 こちらも判断が難しくなります」


 難しくなる。


 「そうなんですね」

 陽は、困ったように眉を下げる。

 「じゃあ……どう答えればいいですか」


 久我の言葉が、

 頭の中で反響する。


 ――決定権を渡す。



 東堂は、

 タブレットを見下ろした。


 沈黙。


 「……具体的な出来事を思い出して」

 「はい」

 「それを、そのまま話してください」


 そのまま。


 「……昨日、昼休みに一人で食べました」

 「それについて、どう感じましたか?」

 「分かりません」

 「不安は?」

 「分かりません」


 堂々巡り。



 東堂は、

 ついに入力を止めた。


 カツ、という音が、

 鳴らない。


 「……今日は、少し時間をおきましょう」

 「……はい」

 「自分の状態を、

 もう少し整理してから、

 また話しましょう」


 整理。


 だが、

 方向が示されなかった。



 相談室を出た瞬間、

 陽は気づいた。


 ――初めて、

 「次の指示」がなかった。



 午後。


 保護委員の女子が、

 いつも通り声をかけてくる。


 「神代くん、

 今日の面談どうだった?」

 「分かりません」

 「……え?」

 「自分では、判断できなくて」


 彼女は、

 明らかに戸惑った。


 「……先生には、

 何て言われたの?」

 「整理してから、

 また話そうって」


 それだけ。


 それ以上、

 踏み込めない。



 放課後。


 椎名が、

 職員室前で声をかけてきた。


 「神代」

 「はい」

 「最近、

 答えが曖昧ね」


 曖昧。


 「……すみません」

 「謝る必要はないわ」

 「……」

 「でも」

 椎名は、

 ほんの少しだけ困った顔をする。

 「判断材料が、集めにくい」


 集めにくい。


 それは、

管理者側の言葉だった。



 「どうしたら、

 集めやすいですか」

 陽は、

穏やかに聞いた。


 椎名は、

答えに詰まった。


 「……それを、

 今、一緒に考えているの」


 考えている。


 初めて、

向こうが“考える側”になった。



 帰り道。


 篠宮が、

小さく言った。


 「……やったな」

 「……分かる?」

 「分かるよ」


 篠宮は、

視線を逸らしながら続ける。


 「今日、

 先生たち、

 お前の話してた」


 陽の胸が、

わずかに締まる。


 「怒ってた?」

 「いや……」

「……」

「困ってた」


 その一言で、

全てが分かった。



 夜。


 ノートを開く。


 【やったこと】

・判断を渡した

・分からないと言った


 【起きたこと】

・指示が止まった

・記録が減った

・困らせた


 【考えたこと】

・従順は、時に武器になる

・判断を奪われた人は、判断を要求する

・不具合は、静かに効く


 最後に、

ゆっくり書く。


 ・二センチ目。


 まだ、

外れてはいない。


 だが、

首輪は、

もう“ぴったり”ではない。


 その隙間に、

空気が入った。


 次は、

この空気が、

誰の目に見えるか。


 それが、

次の局面を決める。

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