第20話 「戻そうとする手」

 変化は、注意としては現れなかった。


 だから、最初は気づきにくい。



 翌朝。


 昇降口で、靴を履き替えていると、

 椎名が声をかけてきた。


 「神代」


 名前だけ。

 呼び止めるほどでもない距離。


 「最近、面談どう?」

 「……問題ありません」


 即答。


 椎名は、少しだけ微笑んだ。


 「そう」

 「……はい」


 それだけで会話は終わる。

 だが、確認は完了している。



 一限目の途中、

 教室の後ろの扉が、静かに開いた。


 保護委員の教師。

 名簿を手に、視線だけを走らせる。


 陽のところで、

 一瞬、止まる。


 ――在席。


 それだけで、

 閉じられた。



 休み時間。


 保護委員の女子が、

 前よりも自然な笑顔で近づいてくる。


 「昨日さ」

 「……なに」

 「一人で食べるって言ってたよね」


 責める口調ではない。

 確認だ。


 「うん」

 「嫌なこと、あった?」


 嫌なこと。


 理由を、要求している。


 「……特に」

 「そっか」


 彼女は頷いたが、

 引き下がらない。


 「でもね」

 「……」

 「“理由がない孤立”って、

  誤解されやすいんだよ」


 誤解。


 いつもの言葉。


 「心配されちゃう」

 「……そう」


 その「そう」は、

 同意ではない。



 昼休み。


 陽は、いつもより人の多い席に座った。


 自分で選んだ、

 “安全な場所”。


 それでも、

 保護委員は近くにいる。


 距離は、三席。


 ――監視ではない。

 ――見守りだ。



 放課後。


 週二回の面談。


 東堂は、

 いつもより丁寧だった。


 「最近、

  自分で判断する場面が

  増えていませんか?」


 穏やかな声。


 「……必要な範囲で」

 「“必要”という基準は、

  誰が決めていますか?」


 来た。


 「……俺です」


 一瞬、

 空気が止まる。


 だが、

 東堂は微笑んだ。


 「そうですね」

 「……」

 「だからこそ、

  確認が必要になる」


 確認。


 すべては、そこに戻る。



 「神代くん」

 東堂は、

 タブレットを操作しながら言う。


 「あなたは、

  “自立したい”と

  考え始めているように見えます」


 見えます。


 事実ではない。

 印象だ。


 「それ自体は、

  悪いことではありません」

 「……」

 「ただし」


 必ず、来る。


 「段階を飛ばすと、

  自分も、周囲も、

  傷つけてしまう」


 段階。


 誰が決めた?


 「ですから」

 東堂は、

 静かに結論を置く。

 「“自分で決めた”という表現は、

  今後、控えましょう」


 控える。


 言葉を。



 「代わりに」

 「……」

 「“相談したうえで決めた”

  という形にすると、

  周囲も安心します」


 形。


 中身ではない。


 「……分かりました」


 陽は、

 その言葉を選んだ。


 だが、

 心の中で、

 静かに線を引く。


 ――従うが、戻らない。



 帰り道。


 篠宮が、

 小さく言った。


 「来てるな」

 「……うん」

 「戻そうとしてる」


 陽は、

 頷いた。


 「でも」

 篠宮は続ける。

 「完全には、

  戻ってない」


 それが、

 唯一の救いだった。



 夜。


 ノートを開く。


 【起きたこと】

・理由を求められた

・言葉を指定された

・“自立”が危険扱い


 【考えたこと】

・圧力は、柔らかくなるほど強い

・戻す力は、ズレを前提にしている

・完全な従順だけが、安定


 最後に、

 静かに書く。


 ・一センチは、もう見つかった。


 次は、

 二センチ目をどう作るか。


 陽は、

 目を閉じた。


 小さなズレは、

 もう、

 “個人の違和感”ではない。


 それは、

 修正対象になった。


 それでも。


 修正される前に、

 できることは、

 まだ残っている。

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