第19話 「一センチだけ外す」

 行動と呼ぶには、あまりにも小さかった。


 だからこそ、

 誰にも止められなかった。



 その日は、週二回の面談の日だった。


 放課後。

 第三相談室。


 東堂は、いつもと同じ位置に座り、

 いつもと同じタブレットを置いていた。


 「こんにちは、神代くん」

 「……こんにちは」


 着席。


 「では、始めましょう」

 「……はい」


 ここまでは、

 何も変わらない。



 「今週、不安定な出来事はありましたか?」

 「ありません」


 カツ。


 「衝動的な行動は?」

 「ありません」


 カツ。


 「他者に強い感情を向けたことは?」


 一瞬、

 陽の頭に真白の顔が浮かぶ。


 「……ありません」


 カツ。



 「安定していますね」

 東堂は、満足そうに言った。

 「この調子で――」


 その言葉を、

 陽は、ほんの一拍だけ待ってから遮った。


 「……一つ、確認していいですか」


 空気が、止まる。


 東堂は、すぐに微笑んだ。


 「質問ですね」

 「はい」

 「どうぞ」


 “どうぞ”と言いながら、

 指は、すでに画面の上にある。



 「もし」

 陽は、

 できるだけ平坦な声で言った。

 「俺が、

 この面談で

 嘘をついていたとしたら」


 東堂の指が、止まった。


 「……どういう意味でしょう」

 「仮定です」


 仮定。


 それは、

 拒否でも、反抗でもない。


 「嘘をついていること自体が、

  問題になりますか?」


 沈黙。


 今までで、

 一番短く、

 一番鋭い沈黙だった。



 東堂は、

 ゆっくりと息を吸った。


 「神代くん」

 「はい」

 「この場は、

  正直さを前提としています」


 前提。


 「ですから」

 「……」

 「嘘は、

  あなたのためになりません」


 ためにならない。


 陽は、

 それ以上、何も言わなかった。


 だが。


 否定もしなかった。



 東堂は、

 何も入力しなかった。


 初めてのことだった。


 「……今日は、ここまでにしましょう」

 「……はい」


 その声は、

 少しだけ硬かった。



 相談室を出るとき、

 廊下の空気が、

 いつもより重く感じられた。


 だが同時に、

 胸の奥に、

 小さな空洞ができている。


 ――通った。


 ほんの一瞬、

 首輪と皮膚の間に、

 隙間ができた。



 翌日。


 教室に入ると、

 いつもと同じ席。

 いつもと同じ視線。


 だが、

 椎名の目だけが、

 一瞬、陽を測るように止まった。


 それだけだ。


 何も言われない。



 昼休み。


 保護委員の女子が、

 いつも通り声をかけてくる。


 「神代くん、今日は――」

 「一人で食べます」


 言い切り。


 短く、

 理由をつけない。


 彼女は、

 一瞬だけ言葉に詰まり、

 それから笑った。


 「……そっか」

 「はい」


 それ以上、

 何も起きなかった。


 だが、

 そのやり取りを、

 誰かが見ていた。



 放課後。


 篠宮が、

 すれ違いざまに、

 ほとんど音にならない声で言った。


 「……今の」

 「……うん」

 「見えた」


 それだけだった。



 夜。


 ノートを開く。


 【やったこと】

・嘘を否定しなかった

・理由を言わなかった


 【起きたこと】

・記録が止まった

・視線が変わった


 【考えたこと】

・反抗しなくても、ズレは作れる

・正解を少し崩すだけで、揺れる

・首輪は、急に外せない


 ページの最後に、

 小さく書く。


 ・一センチ。


 たった、それだけだ。


 だが、

 確実に、

 元の位置には戻らない。


 陽は、

 ノートを閉じた。


 次は、

 この“隙間”が

 誰に見つかるか。


 それが、

 物語を次の段階へ

 押し出す。


 ――もう、

 引き返す道は、

 選択肢から消えていた。

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