第19話 「一センチだけ外す」
行動と呼ぶには、あまりにも小さかった。
だからこそ、
誰にも止められなかった。
*
その日は、週二回の面談の日だった。
放課後。
第三相談室。
東堂は、いつもと同じ位置に座り、
いつもと同じタブレットを置いていた。
「こんにちは、神代くん」
「……こんにちは」
着席。
「では、始めましょう」
「……はい」
ここまでは、
何も変わらない。
*
「今週、不安定な出来事はありましたか?」
「ありません」
カツ。
「衝動的な行動は?」
「ありません」
カツ。
「他者に強い感情を向けたことは?」
一瞬、
陽の頭に真白の顔が浮かぶ。
「……ありません」
カツ。
*
「安定していますね」
東堂は、満足そうに言った。
「この調子で――」
その言葉を、
陽は、ほんの一拍だけ待ってから遮った。
「……一つ、確認していいですか」
空気が、止まる。
東堂は、すぐに微笑んだ。
「質問ですね」
「はい」
「どうぞ」
“どうぞ”と言いながら、
指は、すでに画面の上にある。
*
「もし」
陽は、
できるだけ平坦な声で言った。
「俺が、
この面談で
嘘をついていたとしたら」
東堂の指が、止まった。
「……どういう意味でしょう」
「仮定です」
仮定。
それは、
拒否でも、反抗でもない。
「嘘をついていること自体が、
問題になりますか?」
沈黙。
今までで、
一番短く、
一番鋭い沈黙だった。
*
東堂は、
ゆっくりと息を吸った。
「神代くん」
「はい」
「この場は、
正直さを前提としています」
前提。
「ですから」
「……」
「嘘は、
あなたのためになりません」
ためにならない。
陽は、
それ以上、何も言わなかった。
だが。
否定もしなかった。
*
東堂は、
何も入力しなかった。
初めてのことだった。
「……今日は、ここまでにしましょう」
「……はい」
その声は、
少しだけ硬かった。
*
相談室を出るとき、
廊下の空気が、
いつもより重く感じられた。
だが同時に、
胸の奥に、
小さな空洞ができている。
――通った。
ほんの一瞬、
首輪と皮膚の間に、
隙間ができた。
*
翌日。
教室に入ると、
いつもと同じ席。
いつもと同じ視線。
だが、
椎名の目だけが、
一瞬、陽を測るように止まった。
それだけだ。
何も言われない。
*
昼休み。
保護委員の女子が、
いつも通り声をかけてくる。
「神代くん、今日は――」
「一人で食べます」
言い切り。
短く、
理由をつけない。
彼女は、
一瞬だけ言葉に詰まり、
それから笑った。
「……そっか」
「はい」
それ以上、
何も起きなかった。
だが、
そのやり取りを、
誰かが見ていた。
*
放課後。
篠宮が、
すれ違いざまに、
ほとんど音にならない声で言った。
「……今の」
「……うん」
「見えた」
それだけだった。
*
夜。
ノートを開く。
【やったこと】
・嘘を否定しなかった
・理由を言わなかった
【起きたこと】
・記録が止まった
・視線が変わった
【考えたこと】
・反抗しなくても、ズレは作れる
・正解を少し崩すだけで、揺れる
・首輪は、急に外せない
ページの最後に、
小さく書く。
・一センチ。
たった、それだけだ。
だが、
確実に、
元の位置には戻らない。
陽は、
ノートを閉じた。
次は、
この“隙間”が
誰に見つかるか。
それが、
物語を次の段階へ
押し出す。
――もう、
引き返す道は、
選択肢から消えていた。
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