第16話 「言ってはいけない」
それは、放課後の教室だった。
大掃除前で、人の出入りが多く、
それぞれが自分の作業に集中している――
はずの時間。
陽は、窓際で雑巾を絞っていた。
誰とも話していない。
誰にも話しかけられていない。
その状態が、もう「普通」になりつつあった。
「……ねえ」
背後から、声がした。
振り返ると、真白が立っていた。
距離は、少し近い。
それだけで、周囲の空気が、わずかに張る。
「今、いい?」
「……うん」
真白は、迷うように視線を彷徨わせてから、言った。
「陽くんさ……最近、ちょっと、怖い」
その言葉は、
あまりにも率直だった。
教室の音が、遠のく。
「……どういう意味?」
陽は、静かに聞き返した。
「前はね」
真白は、言葉を選びながら続ける。
「分かりやすかったの。
大丈夫って言うし、
頼ってくれるし」
頼ってくれる。
「でも今は……」
真白は、唇を噛む。
「何考えてるか、分からない」
分からない。
それは、
ここで一番危険な評価だった。
「……それって」
陽は、慎重に言葉を探す。
「俺が、何も言わなくなったから?」
真白は、はっきり頷いた。
「うん」
「それが……怖い」
怖い。
その一言で、
立場が、完全に逆転する。
――黙っている側が、
加害の予兆になる。
*
「でもね」
真白は、続けてしまった。
「先生も言ってた。
“危険なのは、反抗じゃなくて、
考え込むこと”だって」
言ってはいけない。
その言葉を、
そのまま口に出してしまった。
教室の端で、
誰かが、手を止めた。
「だから……」
真白は、震える声で言う。
「ちゃんと、話してほしい。
前みたいに」
前みたいに。
それは、
陽がもう戻れない場所だった。
*
「……それは」
陽は、息を吸った。
「俺に、
“正解を話せ”ってこと?」
その瞬間。
真白の顔から、血の気が引いた。
「ち、違う」
「じゃあ、何を話せばいい?」
声は、荒げていない。
ただ、問いを置いただけだ。
だが。
「……その言い方」
真白は、後ずさる。
「責めてるみたい」
責めている。
まただ。
「責めてない」
陽は、即座に否定する。
「聞いてるだけだ」
だが、
その否定は、
誰の耳にも届かなかった。
*
「神代」
椎名の声が、割って入る。
いつの間にか、
教室の空気は、
完全に止まっていた。
「少し、こちらに」
それは、命令ではない。
だが、拒否の余地もない。
「……はい」
陽は、雑巾を机に置いた。
*
廊下。
椎名は、静かな声で言った。
「今のやり取り、
周囲に不安を与えました」
不安。
「真白さんは、
あなたを心配しているだけです」
「……分かってます」
「なら、なぜああいう言い方を?」
言い方。
内容ではない。
「質問しただけです」
「質問の形が、
適切ではありませんでした」
適切。
その言葉で、
全てが処理される。
*
「神代」
椎名は、少しだけ声を落とす。
「あなたは、
“影響力”がある立場なの」
影響力。
「周囲が、
あなたの変化を、
自分の不安として受け取る」
不安を与える存在。
それが、
新しいラベルだった。
「だから」
「……」
「これ以上、
誤解を招く言動は、
控えましょう」
控える。
沈黙を、
さらに沈黙で覆う。
*
教室に戻ると、
誰も、陽を見なかった。
真白も、
視線を落としたままだ。
彼女は、悪くない。
本気で、怖かったのだ。
――分からない人間が。
*
その夜、
陽はノートを開いた。
【言ったこと】
・正解を話せってこと?
【言われたこと】
・怖い
・不安を与える
・影響力がある
【考えたこと】
・言葉は越線になる
・沈黙は疑念になる
・存在そのものが評価対象
ページの下に、
強く書き込む。
・何をしても、線は踏む。
陽は、初めて理解した。
この場所で、
安全でいるためには、
“自分であること”を
最小化しなければならない。
それは、
守られている状態ではない。
――排除されないための、
縮小だ。
陽は、天井を見つめた。
次に起きるのは、
注意か、
隔離か、
それとも――。
もう、
“静かに進む”段階は、
終わりつつあった。
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