第15話 「名前で呼ばれない」
変化は、音を立てなかった。
それは、誰かに指を差されることでも、
噂が一気に広がることでもない。
ただ――
呼ばれ方が変わった。
*
朝のホームルーム。
椎名は、いつも通り出席を取る。
「神代」
返事をする。
「はい」
それだけなのに、
以前と違って聞こえた。
苗字だけ。
敬称なし。
呼び捨ては、もともと失礼ではない。
だが、ここでは意味を持つ。
“距離を取る”
“感情を乗せない”
管理用の呼び方。
*
一限目の授業中。
陽がノートを取っていると、
プリントが配られた。
以前は、机にそっと置かれていた。
今日は、
少しだけ離れた位置から、
滑らせるように。
触れない。
過剰な配慮。
*
休み時間。
夏目が、陽の席の近くで立ち止まった。
「……神代」
「なに」
「次、面談だよね」
確認。
「うん」
「……無理しないで」
その言葉は、
以前の「心配」とは違った。
“様子を見る”側の声。
「ありがとう」
陽は、正解のトーンで答える。
夏目は、それ以上踏み込まなかった。
踏み込まないことが、
正しさになっている。
*
昼休み。
篠宮が、少し離れた席から
視線だけで合図してきた。
話さない。
近づかない。
それが、
“互いのため”という形。
陽は、
その気遣いが、
どれほど残酷かを理解してしまっていた。
*
週二回になった面談は、
「対話」ではなく
「点検」になっていた。
「今週、不安定な場面はありましたか」
「ありません」
「衝動的な発言は?」
「ありません」
「質問は?」
一瞬、
沈黙。
「……ありません」
東堂は、満足そうに頷く。
カツ。
また、記録の音。
*
放課後、
掲示板に新しい紙が貼られていた。
『支援対象生徒のプライバシー保護について』
その文面は、
とても丁寧で、
とても正しかった。
――不用意に話題にしないこと
――過度な関与を避けること
つまり。
触れないこと。
*
帰り道、
陽は校門の前で立ち止まった。
久我の姿はない。
だが、
久我が言っていた意味が、
今なら分かる。
“対象外”になる前に、
“対象として隔離される”。
守るために、
区切る。
*
夜。
ノートを開く。
【言ったこと】
・ありません
・問題ない
・質問しません
【起きたこと】
・呼び捨て
・距離
・点検
【考えたこと】
・名前はラベルになる
・触れられないのは保護か排除か
・静かすぎるのは、警戒だ
最後に、
一行だけ書く。
・「問題ない」は、存在を薄くする。
陽は、ノートを閉じた。
声を上げていないのに、
何も壊していないのに。
それでも、
自分は確実に
“別の扱い”になっている。
これが、
質問の代償。
拒否よりも、
ずっと静かで、
ずっと深い。
教室の中で、
陽は今日も、
誰にも触れられずに座っていた。
それが、
この世界の
安全な距離だった。
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