第9話 「正解の発声練習」
翌日から、陽は“うまくやる”ことにした。
拒否しない。
反論しない。
ただし、考えることもやめない。
――考えていることを、言わないだけだ。
*
朝のホームルーム。
椎名が、さりげない調子で言う。
「最近、みんなも感じていると思うけれど、
不安な時期は誰にでもあるわ。
大切なのは、周囲と共有すること」
視線が、一瞬だけ陽に集まる。
以前なら、胸がざわついていた。
でも今日は、違う。
「はい」
陽は、少しだけ背筋を伸ばして頷いた。
それだけで、空気が和らぐのが分かる。
――これが、正解。
*
休み時間。
夏目が話しかけてくる。
「神代くん、その後どう?」
「大丈夫。相談して、整理できた」
整理。
便利な言葉だ。
「それならよかった」
夏目は、心から安心したように笑う。
「やっぱり、話すって大事よね」
「うん。自分一人で考えるより、ずっと」
その言葉を口にしながら、
陽は心の中で、別のことを考えていた。
――考えてもいい。
――ただし、結論を出してはいけない。
*
昼休み、篠宮とすれ違った。
一瞬、目が合う。
以前のように、話しかけてはこない。
陽も、声をかけない。
それが“適切な距離”だと、二人とも理解している。
だが、すれ違いざま、篠宮が小さく言った。
「……戻ったな」
何が、と聞かなくても分かった。
「うん」
陽も、小さく返す。
「戻った」
篠宮は、それ以上何も言わずに去った。
その背中を見ながら、
陽は初めて、自分が二つに割れている感覚をはっきり自覚した。
・うまくやっている自分
・納得していない自分
前者が、後者を覆い隠している。
*
放課後、真白が声をかけてきた。
「陽くん、最近……落ち着いたね」
「そう?」
「うん。前より、安心する」
安心。
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥で、何かがひっそり冷えた。
「……それならよかった」
「ほんとに」
真白は、少しだけ笑ってから、言った。
「私、間違ってなかったんだって思える」
間違ってなかった。
その言葉は、
“ありがとう”よりも、
ずっと重かった。
「……そうだね」
陽は、正解の調子で答えた。
*
その夜、陽はノートを開いた。
誰にも見せないノート。
誰にも提出しないノート。
そこに、二つの欄を作る。
【言ったこと】
【考えたこと】
【言ったこと】
・大丈夫
・整理できた
・相談してよかった
【考えたこと】
・なぜ「嫌だ」が説明になるまで待たれない
・なぜ「好き」は理由にならない
・なぜ拒否は不安扱いされる
ペンが止まる。
書けば書くほど、
【考えたこと】のほうが増えていく。
でも、それらは外に出せない。
出した瞬間、
“問題”になる。
*
翌週、保健の授業でグループワークがあった。
テーマは、
『安心できる人間関係とは』
陽は、班の中でこう発言した。
「自分一人で抱え込まないことだと思います」
全員が、納得したように頷く。
「周囲と話し合うことで、
視野が広がって、
誤った判断を防げる」
拍手すら起きた。
教師が、満足そうに言う。
「素晴らしい意見ですね、神代くん」
その瞬間。
陽の中で、
何かが、音を立てずに折れた。
――これは、俺の言葉じゃない。
正確には、
俺の一部だけの言葉だ。
*
放課後、屋上。
誰もいない。
風が強く、声を出しても聞こえない。
「……大丈夫」
陽は、試しに呟いた。
「整理できた」
「相談してよかった」
どれも、
完璧な言葉だった。
喉は詰まらない。
誰も困らない。
何も起きない。
なのに。
「……嫌だ」
その一言だけが、
喉の奥で引っかかった。
声にならない。
出せば、戻れなくなる。
陽は、フェンスに手をついた。
気づいてしまった。
正解の言葉を話し続けるほど、
本音は発声の仕方を忘れていく。
これは、守られている状態じゃない。
――飼い慣らされている。
その認識が、
静かに、しかし確実に、
陽の中に根を張った。
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