第9話 「正解の発声練習」

 翌日から、陽は“うまくやる”ことにした。


 拒否しない。

 反論しない。

 ただし、考えることもやめない。


 ――考えていることを、言わないだけだ。



 朝のホームルーム。


 椎名が、さりげない調子で言う。


 「最近、みんなも感じていると思うけれど、

  不安な時期は誰にでもあるわ。

  大切なのは、周囲と共有すること」


 視線が、一瞬だけ陽に集まる。


 以前なら、胸がざわついていた。

 でも今日は、違う。


 「はい」


 陽は、少しだけ背筋を伸ばして頷いた。


 それだけで、空気が和らぐのが分かる。


 ――これが、正解。



 休み時間。


 夏目が話しかけてくる。


 「神代くん、その後どう?」

 「大丈夫。相談して、整理できた」


 整理。


 便利な言葉だ。


 「それならよかった」

 夏目は、心から安心したように笑う。

 「やっぱり、話すって大事よね」


 「うん。自分一人で考えるより、ずっと」


 その言葉を口にしながら、

 陽は心の中で、別のことを考えていた。


 ――考えてもいい。

 ――ただし、結論を出してはいけない。



 昼休み、篠宮とすれ違った。


 一瞬、目が合う。


 以前のように、話しかけてはこない。

 陽も、声をかけない。


 それが“適切な距離”だと、二人とも理解している。


 だが、すれ違いざま、篠宮が小さく言った。


 「……戻ったな」


 何が、と聞かなくても分かった。


 「うん」

 陽も、小さく返す。

 「戻った」


 篠宮は、それ以上何も言わずに去った。


 その背中を見ながら、

 陽は初めて、自分が二つに割れている感覚をはっきり自覚した。


 ・うまくやっている自分

 ・納得していない自分


 前者が、後者を覆い隠している。



 放課後、真白が声をかけてきた。


 「陽くん、最近……落ち着いたね」

 「そう?」

 「うん。前より、安心する」


 安心。


 その言葉を聞いた瞬間、

 胸の奥で、何かがひっそり冷えた。


 「……それならよかった」

 「ほんとに」


 真白は、少しだけ笑ってから、言った。


 「私、間違ってなかったんだって思える」


 間違ってなかった。


 その言葉は、

 “ありがとう”よりも、

 ずっと重かった。


 「……そうだね」

 陽は、正解の調子で答えた。



 その夜、陽はノートを開いた。


 誰にも見せないノート。

 誰にも提出しないノート。


 そこに、二つの欄を作る。


 【言ったこと】

 【考えたこと】


 【言ったこと】

 ・大丈夫

 ・整理できた

 ・相談してよかった


 【考えたこと】

 ・なぜ「嫌だ」が説明になるまで待たれない

 ・なぜ「好き」は理由にならない

 ・なぜ拒否は不安扱いされる


 ペンが止まる。


 書けば書くほど、

 【考えたこと】のほうが増えていく。


 でも、それらは外に出せない。


 出した瞬間、

 “問題”になる。



 翌週、保健の授業でグループワークがあった。


 テーマは、

 『安心できる人間関係とは』


 陽は、班の中でこう発言した。


 「自分一人で抱え込まないことだと思います」


 全員が、納得したように頷く。


 「周囲と話し合うことで、

  視野が広がって、

  誤った判断を防げる」


 拍手すら起きた。


 教師が、満足そうに言う。


 「素晴らしい意見ですね、神代くん」


 その瞬間。


 陽の中で、

 何かが、音を立てずに折れた。


 ――これは、俺の言葉じゃない。


 正確には、

 俺の一部だけの言葉だ。



 放課後、屋上。


 誰もいない。


 風が強く、声を出しても聞こえない。


 「……大丈夫」


 陽は、試しに呟いた。


 「整理できた」

 「相談してよかった」


 どれも、

 完璧な言葉だった。


 喉は詰まらない。

 誰も困らない。

 何も起きない。


 なのに。


 「……嫌だ」


 その一言だけが、

 喉の奥で引っかかった。


 声にならない。


 出せば、戻れなくなる。


 陽は、フェンスに手をついた。


 気づいてしまった。


 正解の言葉を話し続けるほど、

 本音は発声の仕方を忘れていく。


 これは、守られている状態じゃない。


 ――飼い慣らされている。


 その認識が、

 静かに、しかし確実に、

 陽の中に根を張った。

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