第8話 「対話の形式」
第三相談室は、校舎の端にあった。
保健室より静かで、職員室より遠い。
窓はすりガラスで、外の様子は分からない。
中に入る前から、「ここは学校じゃない」という空気が漂っていた。
ノックをすると、すぐに返事があった。
「どうぞ」
ドアを開けると、白を基調とした部屋だった。
丸いテーブルが一つ、椅子が二脚。
壁には何も貼られていない。
向かいに座っていたのは、知らない女性だった。
年齢は三十代半ばくらい。
派手さはなく、柔らかい服装。
表情は穏やかで、視線は低い。
「神代陽くんですね」
「……はい」
「私は外部カウンセラーの東堂です。今日は“話を聞く”だけですから、緊張しなくて大丈夫ですよ」
“だけ”。
その言葉に、陽は曖昧に頷いた。
*
東堂は、すぐに質問しなかった。
代わりに、こう言った。
「まず確認したいのですが、
ここに来ること自体に、同意していますか?」
陽は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……同意しない選択肢は?」
「ありません」
即答だった。
だが、声色は変わらない。
「では、同意しています」
「はい」
形式は整った。
「神代くん」
東堂は、ペンを持たずに話す。
「最近、周囲から“心配”されることが増えたと聞いています。
それについて、どう感じていますか?」
心配。
「……ありがたい、と思います」
「“思う”というのは?」
「……そう言うべきだと思います」
東堂は、少しだけ首を傾げた。
「本音では?」
「……分かりません」
それは、嘘ではなかった。
*
「拒否した、と伺いました」
東堂は、穏やかに言う。
「何を、拒否したのですか?」
「……管理されることを」
「管理、という言葉を使いましたね」
東堂は、その単語を丁寧になぞる。
「あなたは、“管理されている”と感じた」
「はい」
「それは、事実でしょうか。それとも感覚でしょうか」
感覚。
「……感覚です」
「そう。では、事実として何がありましたか」
陽は、言葉を選んだ。
「説明されました。
気をつけたほうがいい、と」
「誰から?」
「友人や、先生から」
「命令されましたか?」
「……いいえ」
「禁止されましたか?」
「……いいえ」
東堂は、微笑んだ。
「では、強制はなかった」
その言葉が、胸に沈んだ。
*
「神代くん」
「はい」
「あなたは、“自分で考えたい”と言いましたね」
「言いました」
「それは、とても大切な姿勢です」
褒められているはずなのに、
陽の中に、嫌な予感が走る。
「ただ」
やはり、来た。
「自分で考えるためには、“材料”が必要です」
材料。
「あなたが拒否したとき、
周囲は“理由が分からなかった”」
理由。
「理由が分からない拒否は、
“感情的”と受け取られやすい」
感情的。
「感情的な判断は、
後悔につながる可能性が高い」
後悔。
「私たちは、その可能性を減らしたいだけです」
減らしたいだけ。
*
「一つ、質問しますね」
東堂は、初めて少しだけ前のめりになった。
「あなたは、
自分が“守られる存在”だと考えていますか?」
答えは、決まっているはずだった。
「……はい」
そう答えれば、楽だ。
だが。
「……分かりません」
その瞬間、空気が、ほんの少し変わった。
「分からない、というのは」
東堂は、ゆっくり言う。
「守られる必要がない、という意味ですか?」
「……違います」
「では、守られることを拒否している?」
「……拒否、というか……」
言葉が、追いつかない。
「神代くん」
東堂の声は、依然として柔らかい。
「あなたの言葉は、とても曖昧です」
曖昧。
「曖昧な自己認識は、
周囲に誤解を与えやすい」
誤解。
「誤解は、トラブルの原因になります」
*
「ここで、一度整理しましょう」
東堂は、テーブルの中央に手を置いた。
「あなたは、何を望んでいますか?」
――自由に考えたい。
――自分で選びたい。
そう言いたかった。
でも。
「……安心したい、です」
その答えは、どこかで聞いたことがあった。
模範解答。
東堂は、満足そうに頷く。
「安心は、大切です」
「……はい」
「そのためには、サポートを受けることも必要です」
話は、きれいに円を描いて戻ってきた。
*
「最後に、確認です」
東堂は、優しく言った。
「今後、
困ったことがあれば、
一人で判断せず、
相談することに同意できますか?」
拒否すれば、どうなるか。
篠宮の姿が浮かぶ。
反省文。
縮んだ背中。
「……はい」
その答えは、
嘘でも、真実でもなかった。
ただ、
正解だった。
*
相談室を出ると、廊下がやけに広く感じられた。
東堂は、最後にこう言った。
「今日は、とても建設的なお話ができました。
あなたは、問題ありません」
問題ありません。
それは、
「何も変わらない」
という宣告だった。
陽は、校舎の外に出て、空を見上げた。
自分は、何を話した?
何を伝えた?
確かに言葉は交わした。
だが、本当の質問は、一つもされなかった。
――何が嫌なのか。
――なぜ拒否したのか。
それを言うための言葉は、
最初から、用意されていなかった。
「対話」とは、
正解に辿り着くための道であって、
考えるための場所じゃない。
陽は、そう理解してしまった。
そして、もう一つ。
自分は今、
**静かに“戻された”**のだと。
良い子の枠に。
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