第8話 「対話の形式」

 第三相談室は、校舎の端にあった。


 保健室より静かで、職員室より遠い。

 窓はすりガラスで、外の様子は分からない。

 中に入る前から、「ここは学校じゃない」という空気が漂っていた。


 ノックをすると、すぐに返事があった。


 「どうぞ」


 ドアを開けると、白を基調とした部屋だった。

 丸いテーブルが一つ、椅子が二脚。

 壁には何も貼られていない。


 向かいに座っていたのは、知らない女性だった。


 年齢は三十代半ばくらい。

 派手さはなく、柔らかい服装。

 表情は穏やかで、視線は低い。


 「神代陽くんですね」

 「……はい」

 「私は外部カウンセラーの東堂です。今日は“話を聞く”だけですから、緊張しなくて大丈夫ですよ」


 “だけ”。


 その言葉に、陽は曖昧に頷いた。



 東堂は、すぐに質問しなかった。

 代わりに、こう言った。


 「まず確認したいのですが、

  ここに来ること自体に、同意していますか?」


 陽は、一瞬だけ言葉に詰まった。


 「……同意しない選択肢は?」

 「ありません」


 即答だった。

 だが、声色は変わらない。


 「では、同意しています」

 「はい」


 形式は整った。


 「神代くん」

 東堂は、ペンを持たずに話す。

 「最近、周囲から“心配”されることが増えたと聞いています。

  それについて、どう感じていますか?」


 心配。


 「……ありがたい、と思います」

 「“思う”というのは?」

 「……そう言うべきだと思います」


 東堂は、少しだけ首を傾げた。


 「本音では?」

 「……分かりません」


 それは、嘘ではなかった。



 「拒否した、と伺いました」

 東堂は、穏やかに言う。

 「何を、拒否したのですか?」


 「……管理されることを」

 「管理、という言葉を使いましたね」


 東堂は、その単語を丁寧になぞる。


 「あなたは、“管理されている”と感じた」

 「はい」

 「それは、事実でしょうか。それとも感覚でしょうか」


 感覚。


 「……感覚です」

 「そう。では、事実として何がありましたか」


 陽は、言葉を選んだ。


 「説明されました。

  気をつけたほうがいい、と」

 「誰から?」

 「友人や、先生から」

 「命令されましたか?」

 「……いいえ」

 「禁止されましたか?」

 「……いいえ」


 東堂は、微笑んだ。


 「では、強制はなかった」


 その言葉が、胸に沈んだ。



 「神代くん」

 「はい」

 「あなたは、“自分で考えたい”と言いましたね」

 「言いました」

 「それは、とても大切な姿勢です」


 褒められているはずなのに、

 陽の中に、嫌な予感が走る。


 「ただ」

 やはり、来た。

 「自分で考えるためには、“材料”が必要です」


 材料。


 「あなたが拒否したとき、

  周囲は“理由が分からなかった”」


 理由。


 「理由が分からない拒否は、

  “感情的”と受け取られやすい」


 感情的。


 「感情的な判断は、

  後悔につながる可能性が高い」


 後悔。


 「私たちは、その可能性を減らしたいだけです」


 減らしたいだけ。



 「一つ、質問しますね」

 東堂は、初めて少しだけ前のめりになった。


 「あなたは、

  自分が“守られる存在”だと考えていますか?」


 答えは、決まっているはずだった。


 「……はい」


 そう答えれば、楽だ。


 だが。


 「……分かりません」


 その瞬間、空気が、ほんの少し変わった。


 「分からない、というのは」

 東堂は、ゆっくり言う。

 「守られる必要がない、という意味ですか?」


 「……違います」

 「では、守られることを拒否している?」

 「……拒否、というか……」


 言葉が、追いつかない。


 「神代くん」

 東堂の声は、依然として柔らかい。

 「あなたの言葉は、とても曖昧です」


 曖昧。


 「曖昧な自己認識は、

  周囲に誤解を与えやすい」


 誤解。


 「誤解は、トラブルの原因になります」



 「ここで、一度整理しましょう」

 東堂は、テーブルの中央に手を置いた。


 「あなたは、何を望んでいますか?」


 ――自由に考えたい。

 ――自分で選びたい。


 そう言いたかった。


 でも。


 「……安心したい、です」


 その答えは、どこかで聞いたことがあった。

 模範解答。


 東堂は、満足そうに頷く。


 「安心は、大切です」

 「……はい」

 「そのためには、サポートを受けることも必要です」


 話は、きれいに円を描いて戻ってきた。



 「最後に、確認です」

 東堂は、優しく言った。


 「今後、

  困ったことがあれば、

  一人で判断せず、

  相談することに同意できますか?」


 拒否すれば、どうなるか。


 篠宮の姿が浮かぶ。

 反省文。

 縮んだ背中。


 「……はい」


 その答えは、

 嘘でも、真実でもなかった。


 ただ、

 正解だった。



 相談室を出ると、廊下がやけに広く感じられた。


 東堂は、最後にこう言った。


 「今日は、とても建設的なお話ができました。

  あなたは、問題ありません」


 問題ありません。


 それは、

 「何も変わらない」

 という宣告だった。


 陽は、校舎の外に出て、空を見上げた。


 自分は、何を話した?

 何を伝えた?


 確かに言葉は交わした。

 だが、本当の質問は、一つもされなかった。


 ――何が嫌なのか。

 ――なぜ拒否したのか。


 それを言うための言葉は、

 最初から、用意されていなかった。


 「対話」とは、

 正解に辿り着くための道であって、

 考えるための場所じゃない。


 陽は、そう理解してしまった。


 そして、もう一つ。


 自分は今、

 **静かに“戻された”**のだと。


 良い子の枠に。

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