第7話 「本音は小さな声で」
声をかけられたのは、放課後の図書室だった。
窓際の席で、陽が参考書を開いていると、椅子を引く音がした。
顔を上げると、篠宮が立っていた。
「……いい?」
「うん」
周囲には数人いるが、誰もこちらを見ていない。
この距離、この音量、この視線の少なさ。
――“安全”。
篠宮は、陽の向かいに座らず、斜め後ろの席に腰を下ろした。
正面は避ける。
距離は保つ。
学んだ作法だ。
「……最近、神代の噂、聞いた」
「……ああ」
噂、という言い方がもう正確ではないことを、二人とも分かっていた。
それは噂未満で、事実未満で、空気だ。
「拒否したんだって?」
篠宮は、囁くように言った。
「……すごいな」
すごい。
その言葉に、陽は笑えなかった。
「すごくない。ただ……」
「うん」
「もう、黙れなかった」
篠宮は、しばらく黙っていた。
本のページをめくるふりをして、周囲を確認してから、ようやく口を開く。
「俺さ」
「……うん」
「本当は、反省してない」
陽の手が、止まった。
「……」
「正確に言うと、反省しなきゃいけない理由が、分からない」
声は、震えていなかった。
むしろ、諦めきったように落ち着いている。
「相手が嫌だったなら、もちろん悪い。でも」
篠宮は、唇を噛む。
「俺、断られてない。困ってるとも言われてない」
それは、ここでは口にしてはいけない種類の言葉だった。
「でも、“そういう可能性があった”って」
篠宮は、乾いた笑いを浮かべる。
「それだけで、全部、俺の責任になった」
陽は、何も言えなかった。
「カウンセリングでさ」
篠宮は続ける。
「何度も聞かれた。
『なぜ、自分で判断したの?』って」
自分で判断したこと自体が、罪。
「俺、ちゃんと答えたんだよ」
「……なんて?」
「『好きだったから』って」
その瞬間、篠宮の目が伏せられた。
「そしたらさ」
「……」
「“それは理由にならない”って言われた」
理由にならない。
「好き、は衝動で」
「……」
「衝動は危険で」
「……」
「危険な判断をする自分を、まず疑いなさい、って」
篠宮は、静かに息を吐いた。
「だから俺、言い直した」
「……」
「『俺が、未熟でした』って」
それが、正解だった。
そこから先は、楽だった。
話はスムーズに進んだ。
反省文も、修正されなくなった。
「……神代」
篠宮は、ようやく陽を見た。
「お前、なんで拒否した?」
陽は、少し考えた。
「……分からない」
「え」
「理屈じゃない。ただ……」
篠宮の言葉が、胸に残っていた。
「理由にならない、って言われるのが嫌だった」
「……」
「好きとか、嫌だとか、そういうのを、
最初から“判断ミス”にされるのが」
篠宮は、何も言わなかった。
ただ、深く頷いた。
「……だよな」
小さな声で、そう言った。
*
図書室を出るとき、篠宮は言った。
「神代」
「なに」
「俺、もう一回やり直せるなら……」
言いかけて、止めた。
「……やっぱ、やめとく」
「……」
「“やり直したい”って言うのも、危ない言葉だから」
そう言って、篠宮は先に去った。
背中は、以前よりずっと小さく見えた。
*
その翌日。
校内放送が流れた。
『お知らせします。
男子生徒のメンタルケア体制強化のため、
本日より個別ヒアリングを順次実施します』
教室が、ざわつく。
『対象者には、個別に通知します』
対象者。
陽のスマホが、震えた。
【神代 陽さん
放課後、第三相談室へお越しください】
短い通知。
理由は書かれていない。
陽は、スマホを伏せた。
拒否した結果が、これだ。
「……神代くん」
真白が、声をかけてきた。
表情は、硬い。
「呼ばれた?」
「……うん」
「……そっか」
それだけで、会話は終わった。
助けようとする人はいない。
責める人もいない。
ただ、
正しい流れが進んでいるだけだ。
*
放課後、第三相談室の前で、陽は立ち止まった。
ドアには、こう書かれている。
『安心・安全のための対話の場』
ノブに手をかけた瞬間、
篠宮の声が、脳裏に蘇る。
――それは理由にならない。
陽は、深く息を吸った。
自分は、何を言うべきか。
何を言ってはいけないか。
考えている時点で、
もう“対等な対話”じゃない。
それでも。
それでも、言葉にしなければ、
自分は“良い子”の殻に戻される。
陽は、ドアをノックした。
「どうぞ」
中から、穏やかな声が返ってくる。
――ここからだ。
陽は、自分の足で、一歩踏み出した。
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