第5話 「守る人」

それは、ほんの小さな出来事だった。


 放課後、図書室の前で、陽は真白に呼び止められた。


 「陽くん、ちょっといい?」

 「どうしたの」

 「人、少ないところで話したくて」


 言われてみれば、夕方の校舎は静かだった。

 部活の音も遠く、廊下にはほとんど人がいない。


 ――人の少ないところ。


 篠宮の顔が、一瞬だけ頭をよぎる。


 「ここ、だめかな」

 陽は無意識に周囲を見回した。

 「……あ」


 真白は、その仕草に気づいたのか、少しだけ表情を曇らせた。


 「ごめん。私が気が利かなかったね」

 「いや、そうじゃなくて」


 真白は、図書室の横にある閲覧スペースを指さした。ガラス張りで、外から中が見える。


 「じゃあ、ここなら大丈夫」


 大丈夫。


 その言葉に、陽は頷いた。



 二人は向かい合って椅子に座った。

 距離はきちんと保たれている。

 触れていない。

 視線も、逸らしがちだ。


 「ねえ、陽くん」

 真白は、指を組みながら切り出した。

 「最近、篠宮くんのこと、気にしてるでしょ」


 「……まあ」

 「優しいね」


 その言い方は、褒め言葉だった。


 「でもね」

 真白は、少しだけ声を落とす。

 「陽くんまで、ああなってほしくない」


 ああなって。


 「……どういう意味」

 「誤解されるってこと」


 真白は、真剣な顔で言った。


 「陽くんって、無自覚に距離が近いときあるから」

 「え」

 「本人は何もしてないのに、“期待させた”って言われるタイプ」


 心臓が、どくっと鳴った。


 「だから、私がちゃんと守らなきゃって思って」


 守る。


 その言葉は、いつも通りだった。

 でも今日は、少し違って聞こえた。


 「守るって……具体的に?」

 「誤解されないように、私が“管理役”になるってこと」


 管理。


 「周りには、ちゃんと説明する。

  陽くんは軽い人じゃない。

  不用意なことはしないって」


 真白は、安心させるように微笑んだ。


 「だから、何かあったら、まず私に言って。

  一人で判断しないで」


 一人で判断しない。


 掲示板の言葉と、ぴったり重なる。


 「……もし、俺が嫌だって言ったら」

 陽は、思い切って聞いた。


 真白は、一瞬だけ黙った。


 「嫌……?」

 「そういう、管理されるのが」


 真白の眉が、ほんのわずかに寄る。


 「嫌っていうか……それは、陽くんのためにならないと思う」

 「なんで」

 「だって」


 真白は、困ったように笑った。


 「守られるの、怖い?」


 その質問は、優しい形をしていた。

 でも、中身は違う。


 守られるのを拒む=怖がり。

 守られるのを拒む=問題あり。


 「……怖くない」

 「じゃあ、いいよね」


 結論は、最初から決まっていた。



 その日のうちに、噂は動き出した。


 クラスのグループチャットに、真白の名前が何度か出る。

 直接的な表現はない。

 ただ、空気が変わる。


 『神代くん、最近ちょっと危ういらしい』

 『真白さんが気にしてるって』

 『ちゃんと見てあげてるの、えらい』


 えらい。


 陽は、スマホを握りしめた。


 自分は、何もしていない。

 ただ、話しただけだ。


 なのに、“危うい”のは自分で、

 “えらい”のは真白。



 翌日。


 夏目が、陽を呼び止めた。


 「神代くん、少し話せる?」

 「……うん」


 彼女は、周囲に人がいる場所を選んだ。

 それだけで、意味が伝わってくる。


 「真白さんから聞いたわ」

 「何を」

 「あなた、最近ちょっと、悩んでるんでしょう」


 悩んでいる。

 それは事実だ。


 「だからって、一人で抱え込まないで」

 夏目は、柔らかく言った。

 「判断を誤る前に、誰かに頼るのは大事よ」


 判断を誤る前に。


 「……俺、何か誤った判断した?」

 「まだ、してない」


 その“まだ”が、胸に刺さる。


 「だから、今のうちに。ね?」


 夏目は、同意を求めるように微笑んだ。



 放課後、陽は一人で屋上に行った。

 鍵は開いている。

 風が強く、誰もいない。


 ここなら、誰にも見られない。


 ――だから、危険。


 そんな考えが浮かんだ自分に、陽は愕然とした。


 自分で、自分を検閲している。


 「……違うだろ」


 声に出して、ようやく少しだけ、息ができた。


 真白は、悪くない。

 心配してくれている。

 善意だ。


 それでも。


 その善意が、

 “俺は判断できない存在だ”

 と、周囲に宣言する役割を果たしている。


 気づいたときには、

 自分の立場が、少しだけ変わっていた。


 誰も責めない。

 誰も怒らない。


 ただ、

 「守るべき対象」

 として、

 一段低い場所に置かれる。


 陽は、フェンス越しに校庭を見下ろした。


 みんな、正しい。

 みんな、優しい。


 ――だから、逃げ場がない。


 この世界で、「嫌だ」と言うには、

 勇気がいる。


 それを、陽はようやく理解し始めていた。

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