第5話 「守る人」
それは、ほんの小さな出来事だった。
放課後、図書室の前で、陽は真白に呼び止められた。
「陽くん、ちょっといい?」
「どうしたの」
「人、少ないところで話したくて」
言われてみれば、夕方の校舎は静かだった。
部活の音も遠く、廊下にはほとんど人がいない。
――人の少ないところ。
篠宮の顔が、一瞬だけ頭をよぎる。
「ここ、だめかな」
陽は無意識に周囲を見回した。
「……あ」
真白は、その仕草に気づいたのか、少しだけ表情を曇らせた。
「ごめん。私が気が利かなかったね」
「いや、そうじゃなくて」
真白は、図書室の横にある閲覧スペースを指さした。ガラス張りで、外から中が見える。
「じゃあ、ここなら大丈夫」
大丈夫。
その言葉に、陽は頷いた。
*
二人は向かい合って椅子に座った。
距離はきちんと保たれている。
触れていない。
視線も、逸らしがちだ。
「ねえ、陽くん」
真白は、指を組みながら切り出した。
「最近、篠宮くんのこと、気にしてるでしょ」
「……まあ」
「優しいね」
その言い方は、褒め言葉だった。
「でもね」
真白は、少しだけ声を落とす。
「陽くんまで、ああなってほしくない」
ああなって。
「……どういう意味」
「誤解されるってこと」
真白は、真剣な顔で言った。
「陽くんって、無自覚に距離が近いときあるから」
「え」
「本人は何もしてないのに、“期待させた”って言われるタイプ」
心臓が、どくっと鳴った。
「だから、私がちゃんと守らなきゃって思って」
守る。
その言葉は、いつも通りだった。
でも今日は、少し違って聞こえた。
「守るって……具体的に?」
「誤解されないように、私が“管理役”になるってこと」
管理。
「周りには、ちゃんと説明する。
陽くんは軽い人じゃない。
不用意なことはしないって」
真白は、安心させるように微笑んだ。
「だから、何かあったら、まず私に言って。
一人で判断しないで」
一人で判断しない。
掲示板の言葉と、ぴったり重なる。
「……もし、俺が嫌だって言ったら」
陽は、思い切って聞いた。
真白は、一瞬だけ黙った。
「嫌……?」
「そういう、管理されるのが」
真白の眉が、ほんのわずかに寄る。
「嫌っていうか……それは、陽くんのためにならないと思う」
「なんで」
「だって」
真白は、困ったように笑った。
「守られるの、怖い?」
その質問は、優しい形をしていた。
でも、中身は違う。
守られるのを拒む=怖がり。
守られるのを拒む=問題あり。
「……怖くない」
「じゃあ、いいよね」
結論は、最初から決まっていた。
*
その日のうちに、噂は動き出した。
クラスのグループチャットに、真白の名前が何度か出る。
直接的な表現はない。
ただ、空気が変わる。
『神代くん、最近ちょっと危ういらしい』
『真白さんが気にしてるって』
『ちゃんと見てあげてるの、えらい』
えらい。
陽は、スマホを握りしめた。
自分は、何もしていない。
ただ、話しただけだ。
なのに、“危うい”のは自分で、
“えらい”のは真白。
*
翌日。
夏目が、陽を呼び止めた。
「神代くん、少し話せる?」
「……うん」
彼女は、周囲に人がいる場所を選んだ。
それだけで、意味が伝わってくる。
「真白さんから聞いたわ」
「何を」
「あなた、最近ちょっと、悩んでるんでしょう」
悩んでいる。
それは事実だ。
「だからって、一人で抱え込まないで」
夏目は、柔らかく言った。
「判断を誤る前に、誰かに頼るのは大事よ」
判断を誤る前に。
「……俺、何か誤った判断した?」
「まだ、してない」
その“まだ”が、胸に刺さる。
「だから、今のうちに。ね?」
夏目は、同意を求めるように微笑んだ。
*
放課後、陽は一人で屋上に行った。
鍵は開いている。
風が強く、誰もいない。
ここなら、誰にも見られない。
――だから、危険。
そんな考えが浮かんだ自分に、陽は愕然とした。
自分で、自分を検閲している。
「……違うだろ」
声に出して、ようやく少しだけ、息ができた。
真白は、悪くない。
心配してくれている。
善意だ。
それでも。
その善意が、
“俺は判断できない存在だ”
と、周囲に宣言する役割を果たしている。
気づいたときには、
自分の立場が、少しだけ変わっていた。
誰も責めない。
誰も怒らない。
ただ、
「守るべき対象」
として、
一段低い場所に置かれる。
陽は、フェンス越しに校庭を見下ろした。
みんな、正しい。
みんな、優しい。
――だから、逃げ場がない。
この世界で、「嫌だ」と言うには、
勇気がいる。
それを、陽はようやく理解し始めていた。
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