第4話 「戻ってきた人」

篠宮が登校してきたのは、一週間後だった。


 それは朝のホームルームが始まる直前で、教室の空気がすでに出来上がったあとだった。

 扉が開く音に、数人がちらりと視線を向け、すぐに逸らす。


 「……おはようございます」


 篠宮の声は、小さかった。


 以前と同じ制服。髪型も変わっていない。

 なのに、陽の目には、どこか輪郭が薄くなったように見えた。


 「篠宮くん」


 担任の椎名が、柔らかく声をかける。


 「体調はもう大丈夫?」

 「……はい」

 「無理しないで。困ったことがあったら、すぐ相談するのよ」


 それは優しさだった。

 だが同時に、釘を刺す言葉でもあった。


 篠宮は深く頷き、自分の席に向かった。

 その途中、誰とも目が合わない。


 椅子を引く音が、やけに大きく響いた。



 授業が始まっても、教室は静かすぎた。


 篠宮がノートを取るたび、シャーペンの音が妙に目立つ。

 誰かが彼の方を見て、何も言わずに視線を戻す。


 ――触れてはいけないもの。


 そんな扱いだった。


 陽は、胸の奥がざわつくのを感じながら、黒板を見ていた。



 休み時間。


 真白が、いつもの調子で陽に話しかけてくる。


 「篠宮くん、戻ってきたね」

 「……うん」

 「よかった。ちゃんとケアしてもらえたんだ」


 ケア。


 その言葉を、陽は飲み込む。


 「でもさ」

 真白は声を落とした。

 「今は、あんまり刺激しないほうがいいと思う」


 刺激。


 「刺激って……」

 「ほら、話しかけたり、必要以上に近づいたりするとさ。本人も、混乱するかもしれないし」


 混乱。


 それは、篠宮のためなのか。

 それとも、周囲のためなのか。


 「……前と同じように話すのは?」

 「うーん……今は“前と同じ”じゃないから」


 真白は困ったように笑った。


 「悪気はないんだよ? でも、ほら。みんな、気を遣ってるだけ」


 気遣い。


 その言葉が、陽の中で鈍く響く。



 昼休み、陽は食堂ではなく、校舎裏の自販機の前にいた。

 人目を避けたかったわけじゃない。ただ、自然と足が向いた。


 そこに、篠宮がいた。


 一人で、缶コーヒーを見つめている。


 「……篠宮」


 声をかけた瞬間、自分の心臓が跳ねた。

 ――勝手な接触。

 ――段階を飛ばす行為。


 だが、もう止められなかった。


 篠宮は、びくっと肩を揺らし、ゆっくり振り返った。


 「……神代」

 「久しぶり」

 「……うん」


 沈黙。


 以前なら、こんな間はなかった。

 どうでもいい話をして、笑って、終わっていた。


 「……大丈夫か」

 「……大丈夫だよ」


 その言葉は、あまりに早かった。


 「ちゃんと、反省したし」

 「反省……」

 「俺が、軽率だったから」


 篠宮は、自分に言い聞かせるように言った。


 「ちゃんと順序を守らなきゃいけなかった。

  相手の気持ちを考えなきゃいけなかった。

  自分で判断しちゃ、だめだった」


 教室の掲示。

 保健の授業。

 椎名の言葉。


 全部、同じことを言っている。


 「……それ、本心か?」

 陽は、思わず聞いていた。


 篠宮は、一瞬だけ黙った。


 それから、ぎこちなく笑う。


 「本心に決まってるだろ。

  俺、悪いことしたんだから」


 その笑顔が、ひどく作り物に見えた。


 「……じゃあさ」

 陽は、喉の奥が詰まるのを感じながら続ける。

 「もし、もう一度同じ状況になったら――」


 「やらない」


 即答だった。


 「絶対、やらない。

  だって……もう、ああいうの、怖いし」


 怖い。


 誰が?

 何が?


 陽は、それ以上聞けなかった。



 その日の放課後。


 陽は職員室に呼ばれた。


 「神代くん」


 椎名の表情は、いつも通り穏やかだった。


 「今日、お昼休みに篠宮くんと話したでしょう」

 「……はい」

 「悪いことじゃないわ。ただ……」


 ただ、の後に続く言葉を、陽はもう知っていた。


 「彼は今、とてもデリケートなの。

  善意でも、負担になることがある」


 「……俺、何かまずいことを?」

 「いいえ。ただ、覚えておいてほしいの」


 椎名は、少しだけ声を低くした。


 「“正しい距離”を保つこと。

  それが、あなた自身を守ることにもなるのよ」


 あなた自身を守る。


 その言葉は、脅しではない。

 忠告だ。

 善意だ。


 それが、いちばん厄介だった。



 帰り道、陽は気づいた。


 篠宮は、もう誰とも二人きりにならない。

 常に、人のいる場所を選ぶ。

 誰かが近づくと、一歩引く。


 まるで――

 自分が危険物であるかのように。


 そして、誰もそれを不自然だとは思っていない。


 「反省した良い子」

 「ちゃんと学んだ」

 「もう大丈夫」


 そう言われながら、

 篠宮は、確実に“縮んで”いた。



 その夜、陽は布団の中で目を閉じた。


 篠宮の言葉が、何度も頭に浮かぶ。


 ――俺が、悪いことしたんだから。


 もし、自分だったら。


 もし、自分が「悪い」と言わなかったら。


 もし、「納得していない」と言ったら。


 その瞬間、

 自分は“守られる側”から外れる。


 それは、誰にも殴られないし、怒鳴られもしない。

 ただ、静かに、正しさの輪から外される。


 ――これが、多数派の暴力なんだ。


 陽は、初めてはっきりと、そう理解してしまった。


 そして同時に、

 次は自分かもしれない、という予感が、

 ひどく現実味を帯びて胸に落ちてきた。

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