第4話 「戻ってきた人」
篠宮が登校してきたのは、一週間後だった。
それは朝のホームルームが始まる直前で、教室の空気がすでに出来上がったあとだった。
扉が開く音に、数人がちらりと視線を向け、すぐに逸らす。
「……おはようございます」
篠宮の声は、小さかった。
以前と同じ制服。髪型も変わっていない。
なのに、陽の目には、どこか輪郭が薄くなったように見えた。
「篠宮くん」
担任の椎名が、柔らかく声をかける。
「体調はもう大丈夫?」
「……はい」
「無理しないで。困ったことがあったら、すぐ相談するのよ」
それは優しさだった。
だが同時に、釘を刺す言葉でもあった。
篠宮は深く頷き、自分の席に向かった。
その途中、誰とも目が合わない。
椅子を引く音が、やけに大きく響いた。
*
授業が始まっても、教室は静かすぎた。
篠宮がノートを取るたび、シャーペンの音が妙に目立つ。
誰かが彼の方を見て、何も言わずに視線を戻す。
――触れてはいけないもの。
そんな扱いだった。
陽は、胸の奥がざわつくのを感じながら、黒板を見ていた。
*
休み時間。
真白が、いつもの調子で陽に話しかけてくる。
「篠宮くん、戻ってきたね」
「……うん」
「よかった。ちゃんとケアしてもらえたんだ」
ケア。
その言葉を、陽は飲み込む。
「でもさ」
真白は声を落とした。
「今は、あんまり刺激しないほうがいいと思う」
刺激。
「刺激って……」
「ほら、話しかけたり、必要以上に近づいたりするとさ。本人も、混乱するかもしれないし」
混乱。
それは、篠宮のためなのか。
それとも、周囲のためなのか。
「……前と同じように話すのは?」
「うーん……今は“前と同じ”じゃないから」
真白は困ったように笑った。
「悪気はないんだよ? でも、ほら。みんな、気を遣ってるだけ」
気遣い。
その言葉が、陽の中で鈍く響く。
*
昼休み、陽は食堂ではなく、校舎裏の自販機の前にいた。
人目を避けたかったわけじゃない。ただ、自然と足が向いた。
そこに、篠宮がいた。
一人で、缶コーヒーを見つめている。
「……篠宮」
声をかけた瞬間、自分の心臓が跳ねた。
――勝手な接触。
――段階を飛ばす行為。
だが、もう止められなかった。
篠宮は、びくっと肩を揺らし、ゆっくり振り返った。
「……神代」
「久しぶり」
「……うん」
沈黙。
以前なら、こんな間はなかった。
どうでもいい話をして、笑って、終わっていた。
「……大丈夫か」
「……大丈夫だよ」
その言葉は、あまりに早かった。
「ちゃんと、反省したし」
「反省……」
「俺が、軽率だったから」
篠宮は、自分に言い聞かせるように言った。
「ちゃんと順序を守らなきゃいけなかった。
相手の気持ちを考えなきゃいけなかった。
自分で判断しちゃ、だめだった」
教室の掲示。
保健の授業。
椎名の言葉。
全部、同じことを言っている。
「……それ、本心か?」
陽は、思わず聞いていた。
篠宮は、一瞬だけ黙った。
それから、ぎこちなく笑う。
「本心に決まってるだろ。
俺、悪いことしたんだから」
その笑顔が、ひどく作り物に見えた。
「……じゃあさ」
陽は、喉の奥が詰まるのを感じながら続ける。
「もし、もう一度同じ状況になったら――」
「やらない」
即答だった。
「絶対、やらない。
だって……もう、ああいうの、怖いし」
怖い。
誰が?
何が?
陽は、それ以上聞けなかった。
*
その日の放課後。
陽は職員室に呼ばれた。
「神代くん」
椎名の表情は、いつも通り穏やかだった。
「今日、お昼休みに篠宮くんと話したでしょう」
「……はい」
「悪いことじゃないわ。ただ……」
ただ、の後に続く言葉を、陽はもう知っていた。
「彼は今、とてもデリケートなの。
善意でも、負担になることがある」
「……俺、何かまずいことを?」
「いいえ。ただ、覚えておいてほしいの」
椎名は、少しだけ声を低くした。
「“正しい距離”を保つこと。
それが、あなた自身を守ることにもなるのよ」
あなた自身を守る。
その言葉は、脅しではない。
忠告だ。
善意だ。
それが、いちばん厄介だった。
*
帰り道、陽は気づいた。
篠宮は、もう誰とも二人きりにならない。
常に、人のいる場所を選ぶ。
誰かが近づくと、一歩引く。
まるで――
自分が危険物であるかのように。
そして、誰もそれを不自然だとは思っていない。
「反省した良い子」
「ちゃんと学んだ」
「もう大丈夫」
そう言われながら、
篠宮は、確実に“縮んで”いた。
*
その夜、陽は布団の中で目を閉じた。
篠宮の言葉が、何度も頭に浮かぶ。
――俺が、悪いことしたんだから。
もし、自分だったら。
もし、自分が「悪い」と言わなかったら。
もし、「納得していない」と言ったら。
その瞬間、
自分は“守られる側”から外れる。
それは、誰にも殴られないし、怒鳴られもしない。
ただ、静かに、正しさの輪から外される。
――これが、多数派の暴力なんだ。
陽は、初めてはっきりと、そう理解してしまった。
そして同時に、
次は自分かもしれない、という予感が、
ひどく現実味を帯びて胸に落ちてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます