第3話 「名前の消える日」
噂は、朝の教室に入った瞬間から漂っていた。
声は低く、しかし確実に。
女子たちの輪の中心で、何かが共有されている。笑い声はなく、代わりにあるのは慎重なトーンと、わずかな優越感。
「……聞いた?」
「うん。昨日の放課後でしょ」
「まさか、あの人がね……」
陽は自分の席に向かいながら、自然とその話題を避けるように視線を落とした。
こういう時、男子は“聞かないふり”をするのが正解だ。
机に鞄を置いた瞬間、前の席が空いていることに気づいた。
「……あれ?」
そこは、三組の**篠宮(しのみや)**の席だった。
大人しく、目立たず、成績も中の上。女子からも「いい子」と言われていた男子生徒。
「篠宮くん、今日欠席?」
後ろの席の女子に聞くと、彼女は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……うん。ちょっと、ね」
「体調?」
「そういうのじゃないと思う」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
*
一限目が始まる前、担任の椎名が教壇に立った。
「出席を取ります」
淡々と名前が呼ばれていく。
「……篠宮」
返事はない。
椎名は一瞬だけ出席簿に目を落とし、それから何事もなかったかのように続けた。
「欠席。以上です」
それだけだった。
誰も理由を説明しない。
誰も質問しない。
それが、異様に感じられた。
*
休み時間、真白が近づいてきた。
「陽くん、気づいた?」
「……篠宮のこと?」
「やっぱり」
真白は声を落とし、周囲を気にするように続ける。
「昨日、相談室に呼ばれたんだって」
「相談?」
「うん。保護面談」
保護面談。
その単語は、最近よく聞く。
「……何があったの」
「詳しくは知らない。でも……」
真白は、ほんの一瞬、言い淀んだ。
「自分から、女子に連絡したらしいよ」
陽は、一瞬意味がわからなかった。
「連絡……?」
「個人的に。夜に」
その場の空気が、ぴんと張り詰める。
「それって……違反?」
「直接的に何かしたわけじゃないみたい。でも、“段階を飛ばした”って」
段階。
陽の頭に、保健の授業のスライドが浮かぶ。
初期段階での判断ミス。
取り返しがつかない。
「しかも、その子、困って相談したらしい」
「誰に」
「友達に。そしたら、保護委員に回されたって」
保護委員。
生徒会とは別に存在する、“紳士保護”を目的とした組織。
男子生徒のトラブルを未然に防ぐための制度だ。
「……篠宮、何か言ってた?」
「言えるわけないでしょ」
真白の声は、責めるようではなく、むしろ哀れむようだった。
「本人も、自分が“悪い”って理解してるみたい。反省文、書いてるって」
反省文。
陽の胸が、ちくりと痛んだ。
何を反省するんだ。
連絡したこと?
好意を持ったこと?
それとも、“許可なく”動いたこと?
*
昼休み、陽は意を決して職員室の前に立った。
理由はうまく言葉にできない。
ただ、篠宮の顔が頭から離れなかった。
中に入ると、椎名がいた。
「神代くん? どうしたの」
「……篠宮のことで」
椎名の表情が、ほんの一瞬だけ固まった。
「心配してくれてありがとう。でも、あなたが気にすることじゃないわ」
「でも、篠宮は――」
「本人のための措置です」
その言葉は、きっぱりしていた。
「篠宮くんは、自分の立場を理解する必要があるの。軽率な行動は、彼自身を傷つけるから」
傷つける。
「しばらくは登校を控えて、カウンセリングを受ける予定よ」
「それって……処分、ですか」
「違います。“保護”です」
椎名は、優しく微笑んだ。
「あなたも覚えておいて。
“何も起きなかった”から問題ない、ではないの。
“起きる前に止める”ことが、大人の役割よ」
陽は、それ以上何も言えなかった。
*
放課後、廊下の掲示板に新しい紙が貼られていた。
『紳士保護委員会からのお知らせ
男子生徒の安全確保のため、
個人的な連絡・接触に関する注意喚起を強化します』
下には、細かい規則が並んでいる。
許可のない連絡は避けること。
不安を感じた場合は、すぐ相談すること。
“自分で判断しないこと”。
陽は、その最後の一文から目を離せなかった。
*
その日の帰り道、陽は篠宮の家の前を通った。
カーテンは閉まっている。
明かりはついていない。
呼び鈴を押そうとして、手が止まった。
――勝手な接触。
――段階を飛ばす行為。
自分が今、やろうとしていることも、同じなんじゃないか。
陽は手を引っ込め、そのまま踵を返した。
背後で、誰かの視線を感じた気がしたが、振り返らなかった。
その夜、クラスのグループチャットが静かに更新された。
『篠宮くんの件、あまり話題にしないであげよう』
『本人も反省してるみたいだし』
『みんな、気をつけようね』
誰も彼を責めていない。
誰も彼を擁護していない。
ただ、彼の名前だけが、会話から消えていく。
陽はスマホを伏せて、天井を見つめた。
――悪意はない。
――正義感すらある。
それなのに。
篠宮は、学校から“いなくなった”。
それがこの世界の、「普通」だった。
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