第3話 「名前の消える日」

 噂は、朝の教室に入った瞬間から漂っていた。


 声は低く、しかし確実に。

 女子たちの輪の中心で、何かが共有されている。笑い声はなく、代わりにあるのは慎重なトーンと、わずかな優越感。


 「……聞いた?」

 「うん。昨日の放課後でしょ」

 「まさか、あの人がね……」


 陽は自分の席に向かいながら、自然とその話題を避けるように視線を落とした。

 こういう時、男子は“聞かないふり”をするのが正解だ。


 机に鞄を置いた瞬間、前の席が空いていることに気づいた。


 「……あれ?」


 そこは、三組の**篠宮(しのみや)**の席だった。

 大人しく、目立たず、成績も中の上。女子からも「いい子」と言われていた男子生徒。


 「篠宮くん、今日欠席?」

 後ろの席の女子に聞くと、彼女は一瞬だけ言葉に詰まった。


 「……うん。ちょっと、ね」

 「体調?」

 「そういうのじゃないと思う」


 それ以上、彼女は何も言わなかった。



 一限目が始まる前、担任の椎名が教壇に立った。


 「出席を取ります」


 淡々と名前が呼ばれていく。


 「……篠宮」


 返事はない。


 椎名は一瞬だけ出席簿に目を落とし、それから何事もなかったかのように続けた。


 「欠席。以上です」


 それだけだった。


 誰も理由を説明しない。

 誰も質問しない。


 それが、異様に感じられた。



 休み時間、真白が近づいてきた。


 「陽くん、気づいた?」

 「……篠宮のこと?」

 「やっぱり」


 真白は声を落とし、周囲を気にするように続ける。


 「昨日、相談室に呼ばれたんだって」

 「相談?」

 「うん。保護面談」


 保護面談。

 その単語は、最近よく聞く。


 「……何があったの」

 「詳しくは知らない。でも……」


 真白は、ほんの一瞬、言い淀んだ。


 「自分から、女子に連絡したらしいよ」


 陽は、一瞬意味がわからなかった。


 「連絡……?」

 「個人的に。夜に」


 その場の空気が、ぴんと張り詰める。


 「それって……違反?」

 「直接的に何かしたわけじゃないみたい。でも、“段階を飛ばした”って」


 段階。


 陽の頭に、保健の授業のスライドが浮かぶ。

 初期段階での判断ミス。

 取り返しがつかない。


 「しかも、その子、困って相談したらしい」

 「誰に」

 「友達に。そしたら、保護委員に回されたって」


 保護委員。

 生徒会とは別に存在する、“紳士保護”を目的とした組織。

 男子生徒のトラブルを未然に防ぐための制度だ。


 「……篠宮、何か言ってた?」

 「言えるわけないでしょ」


 真白の声は、責めるようではなく、むしろ哀れむようだった。


 「本人も、自分が“悪い”って理解してるみたい。反省文、書いてるって」


 反省文。


 陽の胸が、ちくりと痛んだ。


 何を反省するんだ。

 連絡したこと?

 好意を持ったこと?

 それとも、“許可なく”動いたこと?



 昼休み、陽は意を決して職員室の前に立った。


 理由はうまく言葉にできない。

 ただ、篠宮の顔が頭から離れなかった。


 中に入ると、椎名がいた。


 「神代くん? どうしたの」

 「……篠宮のことで」


 椎名の表情が、ほんの一瞬だけ固まった。


 「心配してくれてありがとう。でも、あなたが気にすることじゃないわ」

 「でも、篠宮は――」

 「本人のための措置です」


 その言葉は、きっぱりしていた。


 「篠宮くんは、自分の立場を理解する必要があるの。軽率な行動は、彼自身を傷つけるから」


 傷つける。


 「しばらくは登校を控えて、カウンセリングを受ける予定よ」

 「それって……処分、ですか」

 「違います。“保護”です」


 椎名は、優しく微笑んだ。


 「あなたも覚えておいて。

  “何も起きなかった”から問題ない、ではないの。

  “起きる前に止める”ことが、大人の役割よ」


 陽は、それ以上何も言えなかった。



 放課後、廊下の掲示板に新しい紙が貼られていた。


 『紳士保護委員会からのお知らせ

  男子生徒の安全確保のため、

  個人的な連絡・接触に関する注意喚起を強化します』


 下には、細かい規則が並んでいる。


 許可のない連絡は避けること。

 不安を感じた場合は、すぐ相談すること。

 “自分で判断しないこと”。


 陽は、その最後の一文から目を離せなかった。



 その日の帰り道、陽は篠宮の家の前を通った。


 カーテンは閉まっている。

 明かりはついていない。


 呼び鈴を押そうとして、手が止まった。


 ――勝手な接触。

 ――段階を飛ばす行為。


 自分が今、やろうとしていることも、同じなんじゃないか。


 陽は手を引っ込め、そのまま踵を返した。


 背後で、誰かの視線を感じた気がしたが、振り返らなかった。


 その夜、クラスのグループチャットが静かに更新された。


 『篠宮くんの件、あまり話題にしないであげよう』

 『本人も反省してるみたいだし』

 『みんな、気をつけようね』


 誰も彼を責めていない。

 誰も彼を擁護していない。


 ただ、彼の名前だけが、会話から消えていく。


 陽はスマホを伏せて、天井を見つめた。


 ――悪意はない。

 ――正義感すらある。


 それなのに。


 篠宮は、学校から“いなくなった”。


 それがこの世界の、「普通」だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る