第2話 「良い子」
翌朝、教室はいつもと変わらなかった。
黒板には小テストの範囲が書かれ、女子たちは机を囲んで談笑し、男子たちは背筋を伸ばして静かに座っている。誰も騒がない。誰も乱れない。
――それが「良い教室」だ。
「神代くん、おはよう」
担任の椎名が、出席簿を片手に微笑んだ。四十代前半、穏やかな声、品のある立ち居振る舞い。女子生徒からの信頼も厚い教師だ。
「昨日は……問題なかった?」
「え?」
「放課後、真白さんと一緒だったでしょう。最近、彼女、少し張り切りすぎてるみたいだから」
張り切りすぎ。
その言い方に、陽は小さく首を傾げた。
否定されているわけじゃない。むしろ配慮だ。男子生徒が“負担を感じていないか”を気にかける、良い教師の言葉。
「大丈夫です。普通でした」
「そう。神代くんは、本当に“良い子”ね」
椎名は満足そうに頷き、教壇へ戻った。
良い子。
その言葉を、陽は幼い頃から何度も聞いてきた。
危ないことをしない。
軽率な行動を取らない。
誰かに期待を持たせるようなことを言わない。
自分の価値を、安売りしない。
全部、正しい。
全部、守ってきた。
なのに――。
*
昼休み。
陽は購買で買ったパンを手に、中庭のベンチに座っていた。ここは女子が多い場所だが、最近は陽がいると自然と距離が保たれる。気を遣われているのだと、わかる。
「神代くん」
声をかけてきたのは、クラス委員の夏目だった。成績優秀、責任感が強く、誰からも一目置かれている。
「ちょっといい?」
「うん」
夏目は周囲を一瞥し、ベンチの端に腰を下ろした。距離はきちんと一人分。触れない。触れさせない。
「最近、真白さんと一緒にいる時間、増えてるよね」
「まあ……」
「誤解しないで。責めてるわけじゃないの」
そう前置きしてから、夏目は続ける。
「神代くんは、学年でも評判いいから。軽く扱われたり、噂されたりするの、良くないと思って」
まただ。
この感覚。
守られている。
配慮されている。
大切にされている。
「……俺、何かまずいことしてる?」
「してない。だからこそ、気をつけてほしいの」
夏目の声は、どこまでも真剣だった。
「“してから”じゃ遅いから。男子は、一度でも評判を落とすと、取り戻すの大変でしょう?」
取り戻す。
評判。
価値。
陽はパンを一口かじりながら、ふと考えた。
もし、これが逆だったら?
女子が同じことを言われていたら?
――いや。
想像しようとして、うまくできなかった。
この世界では、そもそも前提が違う。
「……ありがとう。気をつける」
「ええ。あなたは、みんなの“理想”なんだから」
理想。
夏目はそれだけ言って、立ち去った。
背中は誇らしげだった。良いことをした顔だった。
なのに、陽の胸には、昨夜のタブレット画面がちらつく。
“保護されることに同意しますか”
*
五限目は保健だった。
スクリーンに映し出されたスライドには、こう書かれている。
『男子の自己管理と安全』
保健教師の声は淡々としている。
「男子は、社会的にも生物学的にも“影響を受けやすい”立場です。ですから、自己判断を過信せず、信頼できる大人や女性に相談することが重要です」
ノートを取る音が揃って響く。
「特に、初期段階での判断ミスは、その後の人生に長く影響します。皆さんには、自分を大切にする権利があります」
正しい。
全部、正しい。
陽は、スクリーンの文字を目で追いながら、なぜか息が詰まるのを感じていた。
自分を大切にする。
でも、その“大切にする方法”は、いつも外から決められている。
授業の終わり際、教師はこう締めくくった。
「覚えておいてください。
“守られること”は、恥ではありません。
むしろ、それを拒むほうが、危険なのです」
教室中が、当たり前のように頷いた。
陽も、反射的に頷きかけて――止まった。
拒むことが、危険?
拒否権があると言いながら、拒む者は“問題がある”とされる。
同意は形式上自由で、選ばない自由は、事実上存在しない。
昨日の施設。
夏目の忠告。
椎名の「良い子」。
点と点が、ゆっくり線になっていく。
*
放課後、昇降口で真白が待っていた。
「陽くん、今日どうだった?」
「……何が」
「ほら。学校。みんな、変なこと言ってなかった?」
その聞き方が、少しだけ不自然だった。
「別に。普通だよ」
「そっか」
真白は安心したように笑い、それから少しだけ、視線を逸らした。
「ねえ、陽くん」
「なに」
「もし、私が“やりすぎ”だったら……言ってね」
その声は、昨日よりも弱かった。
守る側の自信が、ほんの少しだけ揺れている。
陽は答えなかった。
代わりに、自分の胸に浮かんだ言葉を、心の中で転がした。
――みんな、善意だ。
――誰も、悪くない。
それなのに。
自分の選択が、いつの間にか「正解」か「問題」かで採点されている。
選ばなかった道は、最初から“危険”として封じられている。
「普通」という名の空気が、静かに、確実に、息を詰めてくる。
陽は初めて、はっきりと自覚した。
この違和感は、気のせいじゃない。
――でも、声に出した瞬間に、自分が「悪い子」になる。
昇降口の外は、夕焼けで赤く染まっていた。
帰宅する生徒たちの背中は、みんな同じ速さで、同じ方向へ流れていく。
その流れから外れる勇気が、自分にあるのかどうか。
陽は、まだ答えを持っていなかった。
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