第2話 「良い子」

 翌朝、教室はいつもと変わらなかった。


 黒板には小テストの範囲が書かれ、女子たちは机を囲んで談笑し、男子たちは背筋を伸ばして静かに座っている。誰も騒がない。誰も乱れない。

 ――それが「良い教室」だ。


 「神代くん、おはよう」


 担任の椎名が、出席簿を片手に微笑んだ。四十代前半、穏やかな声、品のある立ち居振る舞い。女子生徒からの信頼も厚い教師だ。


 「昨日は……問題なかった?」

 「え?」

 「放課後、真白さんと一緒だったでしょう。最近、彼女、少し張り切りすぎてるみたいだから」


 張り切りすぎ。


 その言い方に、陽は小さく首を傾げた。

 否定されているわけじゃない。むしろ配慮だ。男子生徒が“負担を感じていないか”を気にかける、良い教師の言葉。


 「大丈夫です。普通でした」

 「そう。神代くんは、本当に“良い子”ね」


 椎名は満足そうに頷き、教壇へ戻った。


 良い子。


 その言葉を、陽は幼い頃から何度も聞いてきた。

 危ないことをしない。

 軽率な行動を取らない。

 誰かに期待を持たせるようなことを言わない。

 自分の価値を、安売りしない。


 全部、正しい。

 全部、守ってきた。


 なのに――。



 昼休み。

 陽は購買で買ったパンを手に、中庭のベンチに座っていた。ここは女子が多い場所だが、最近は陽がいると自然と距離が保たれる。気を遣われているのだと、わかる。


 「神代くん」


 声をかけてきたのは、クラス委員の夏目だった。成績優秀、責任感が強く、誰からも一目置かれている。


 「ちょっといい?」

 「うん」


 夏目は周囲を一瞥し、ベンチの端に腰を下ろした。距離はきちんと一人分。触れない。触れさせない。


 「最近、真白さんと一緒にいる時間、増えてるよね」

 「まあ……」

 「誤解しないで。責めてるわけじゃないの」


 そう前置きしてから、夏目は続ける。


 「神代くんは、学年でも評判いいから。軽く扱われたり、噂されたりするの、良くないと思って」


 まただ。

 この感覚。


 守られている。

 配慮されている。

 大切にされている。


 「……俺、何かまずいことしてる?」

 「してない。だからこそ、気をつけてほしいの」


 夏目の声は、どこまでも真剣だった。


 「“してから”じゃ遅いから。男子は、一度でも評判を落とすと、取り戻すの大変でしょう?」


 取り戻す。

 評判。

 価値。


 陽はパンを一口かじりながら、ふと考えた。


 もし、これが逆だったら?

 女子が同じことを言われていたら?


 ――いや。

 想像しようとして、うまくできなかった。

 この世界では、そもそも前提が違う。


 「……ありがとう。気をつける」

 「ええ。あなたは、みんなの“理想”なんだから」


 理想。


 夏目はそれだけ言って、立ち去った。

 背中は誇らしげだった。良いことをした顔だった。


 なのに、陽の胸には、昨夜のタブレット画面がちらつく。


 “保護されることに同意しますか”



 五限目は保健だった。


 スクリーンに映し出されたスライドには、こう書かれている。


 『男子の自己管理と安全』


 保健教師の声は淡々としている。


 「男子は、社会的にも生物学的にも“影響を受けやすい”立場です。ですから、自己判断を過信せず、信頼できる大人や女性に相談することが重要です」


 ノートを取る音が揃って響く。


 「特に、初期段階での判断ミスは、その後の人生に長く影響します。皆さんには、自分を大切にする権利があります」


 正しい。

 全部、正しい。


 陽は、スクリーンの文字を目で追いながら、なぜか息が詰まるのを感じていた。


 自分を大切にする。

 でも、その“大切にする方法”は、いつも外から決められている。


 授業の終わり際、教師はこう締めくくった。


 「覚えておいてください。

  “守られること”は、恥ではありません。

  むしろ、それを拒むほうが、危険なのです」


 教室中が、当たり前のように頷いた。


 陽も、反射的に頷きかけて――止まった。


 拒むことが、危険?


 拒否権があると言いながら、拒む者は“問題がある”とされる。

 同意は形式上自由で、選ばない自由は、事実上存在しない。


 昨日の施設。

 夏目の忠告。

 椎名の「良い子」。


 点と点が、ゆっくり線になっていく。



 放課後、昇降口で真白が待っていた。


 「陽くん、今日どうだった?」

 「……何が」

 「ほら。学校。みんな、変なこと言ってなかった?」


 その聞き方が、少しだけ不自然だった。


 「別に。普通だよ」

 「そっか」


 真白は安心したように笑い、それから少しだけ、視線を逸らした。


 「ねえ、陽くん」

 「なに」

 「もし、私が“やりすぎ”だったら……言ってね」


 その声は、昨日よりも弱かった。

 守る側の自信が、ほんの少しだけ揺れている。


 陽は答えなかった。


 代わりに、自分の胸に浮かんだ言葉を、心の中で転がした。


 ――みんな、善意だ。

 ――誰も、悪くない。


 それなのに。


 自分の選択が、いつの間にか「正解」か「問題」かで採点されている。

 選ばなかった道は、最初から“危険”として封じられている。


 「普通」という名の空気が、静かに、確実に、息を詰めてくる。


 陽は初めて、はっきりと自覚した。


 この違和感は、気のせいじゃない。


 ――でも、声に出した瞬間に、自分が「悪い子」になる。


 昇降口の外は、夕焼けで赤く染まっていた。

 帰宅する生徒たちの背中は、みんな同じ速さで、同じ方向へ流れていく。


 その流れから外れる勇気が、自分にあるのかどうか。


 陽は、まだ答えを持っていなかった。

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