貞操観念が逆転していることに、誰も疑問を持っていない

@TK83473206

第1話 「普通」のかたち

 朝のホームは、いつも通り静かだった。


 スーツの裾を揃え、前髪を整え、口元をきゅっと結ぶ男たちが列に並ぶ。駅員が注意喚起のアナウンスを流すより早く、彼らは互いの距離を一歩ぶん空けた。近づきすぎるのは無作法だ。いや――無作法、というより、軽い。


 「……あ、陽(はる)くん」


 背中を軽く叩かれて振り返ると、同級生の真白(ましろ)がいた。髪はまとめ、制服のネクタイはゆるく、顔は眠たげなのに目だけが妙に冴えている。


 「今日の小テスト、やばい」

 「……やばいのは毎回じゃん」

 「ひどい。私、ちゃんと“努力”してるんだけど」


 真白は笑いながら、陽の胸元を指先でとんとんと叩いた。ボタンの留め方。シャツの襟。身だしなみ。男子が乱れていると、周囲の視線が刺さる。本人のためじゃない。周りの安心のためだ。


 「陽くん、今日もちゃんとしてるね」

 「……まあ、普通に」

 「うん。普通がいちばん偉い」


 真白のその言い方に、陽はいつも少しだけむず痒くなる。普通――その単語が、誉め言葉であり、審査の合格点であり、そして首輪みたいでもあることを、陽はうまく言葉にできない。


 電車が来て、真白は何気なく腕を絡めてきた。

 男子側が手を引くのはよくない。手を引くのは“誘導”だ。誘導は、女性側の役割だ。男子は、受け身で、慎ましく、選ばれる側でいるのが美しい――そう教わってきた。


 陽は抵抗せず、ただ「うん」とだけ言って乗り込んだ。


 車内にはポスターが並んでいた。


 『男子の品位は未来の信用。

  軽率な交際は、あなたの価値を下げます。

  ――市民啓発週間』


 いつも見ているはずなのに、今日はやけに目に入る。たぶん、真白が隣にいるせいだ。真白の香り。真白の体温。そういうものに意識が引っ張られて、ポスターの言葉が妙に生々しく感じられる。


 「陽くん、見てる」

 「なにを」

 「いや、ポスター。真面目だなって」


 真白は笑って、陽の肩にもたれた。周りの女性たちはその光景を見て、誰も咎めない。むしろ「いいね」みたいに頷く人がいる。男が“守られている”図は、微笑ましいものとして消費される。


 陽は胸の中で、小さく息を吐いた。

 これが普通。自分にとっても普通。

 ――少なくとも、今朝までは。



 学校の昇降口で、真白は陽の腕を離した。

 「じゃ、放課後。例の件、行こ」

 「うん」


 例の件。

 真白が見つけた「いい店」。

 ここ最近、真白はやたらと陽にいろんな“体験”をさせようとしていた。カフェ、映画、夜景。どれも健全。健全だけど、真白のテンションはどこか妙に高い。


 「陽くんさ」

 靴箱の前で、真白が囁く。

 「私がちゃんと守ってあげるから」


 守る。

 その言葉が、陽の耳に残る。


 ――守られるって、そんなにいいことだっけ。


 思考の端に浮かんだ疑問は、授業のベルでかき消された。



 放課後。

 真白に連れられて辿り着いたのは、商店街の裏手にある雑居ビルだった。外観は普通。いや、普通よりも地味。看板も小さい。


 『会員制 コンシェルジュ・ラウンジ』


 真白はスマホを見せて、受付の女性に何かを提示した。受付は笑顔で頷き、二人を奥へ通す。


 エレベーターを降りた先は、ホテルのロビーみたいに静かで、香りが良くて、照明が柔らかかった。壁には規則が額装されている。


 『当店は“紳士保護”を目的とした施設です。

  男性の尊厳と品位を最優先とします。

  会員の同意のない接触・強要・虚偽の誘導は固く禁じます。

  違反者は会員資格を剥奪し、必要に応じて関係機関へ通報します。』


 紳士保護。

 陽は言葉の意味をすぐ理解できなかった。


 「……ここ、なに?」

 「安心して。ちゃんとしてるところ」

 真白はさらっと言う。「陽くん、こういうの初めてだよね?」

 「こういうのって……」


 真白は陽の手を取って、柔らかく握る。

 「“デビュー”。みんな一回は通るんだよ。男子の品位を守るための、儀式みたいなもの」


 儀式。


 陽の喉が、乾く。


 「私、ずっと考えてたの。陽くんって、すごく“良い子”じゃん。だから――」

 真白は真剣な顔で言った。

 「変な噂とか、軽い扱いとか、絶対されたくない。なら、私が一番最初に“ちゃんと”してあげるのが一番いいって」


 ちゃんと。


 陽はその単語の正体を、やっと察した。

 周りの女の子が時々ひそひそ話す「管理」とか「保護」とか「最初の責任」とか、そういうのの延長線にあるやつだ。


 なのに、陽の中には、違和感がほとんど湧かない。

 怖いのに、理解できてしまう。

 理解できてしまうのが、もっと怖い。


 受付の奥から、スタッフらしき女性が現れた。落ち着いた口調で頭を下げる。

 「真白様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ。――同伴の紳士様、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


 陽は反射的に名乗ろうとして、喉で止まった。


 名乗る。

 名乗るって、こんなに重い行為だったっけ。


 名札のない場所で、名前を差し出すのは、なぜか……自分の内側まで提出するみたいで。


 「……神代(かみしろ)陽、です」

 やっと口にする。


 スタッフはにこりと微笑んだ。

 「神代様。お手数ですが、こちらの確認事項にご署名ください。“ご本人の同意”が必要ですので」


 タブレットが差し出される。

 そこには項目が並んでいた。


 『本日、あなたは“保護されること”に同意しますか』

 『あなたは“誘導されること”に同意しますか』

 『あなたは“拒否する権利”を理解していますか』

 『拒否した場合、同伴者へ不利益が生じないことを理解していますか』


 拒否する権利。

 不利益が生じない。


 陽は、タブレットを見つめたまま固まった。


 「陽くん?」

 真白が、心配そうに覗き込む。

 「大丈夫。怖くないよ。みんな、こうやって“大人”になるんだよ」


 みんな。


 その言葉が、陽の胸に引っかかった。

 みんなって誰だ。

 自分は本当に、みんなと同じなのか。


 陽の指が、署名欄に触れた瞬間――。


 廊下の先から、甲高い声が響いた。


 「ちょっと! なんで入れないの? 私、会員なんだけど!」

 「申し訳ありません。本日はご予約の確認が――」

 「予約? そんなの関係ないでしょ。男の子なんて、連れてきたらすぐ――」


 言い終える前に、スタッフの声が一段低くなる。

 「――お客様。ここは“紳士保護”施設です。紳士を“物”のように扱う発言はお控えください」


 空気が、凍った。


 陽は、思った。


 ああ、そうだ。

 この世界は、男が守られる。

 守られるための施設がある。

 同意がある。

 拒否権もある。


 それなのに――。


 廊下の女性が吐いた言葉は、陽の中のどこか深い場所を、雑に引っ掻いた。

 その言葉の「軽さ」が、ひどく生々しかった。

 まるで、守られるべき存在を、守るふりをして、便利に扱うみたいに。


 陽はタブレットから目を上げる。

 壁に額装された規則が、先ほどよりも冷たく見えた。


 “紳士保護”。


 それは本当に、紳士のためのものなのか。

 それとも――。


 「神代様」

 スタッフが柔らかく促す。

 「ご署名、なさいますか?」


 陽は、笑おうとして失敗した。


 指先が震える。

 震えは怖さのせいか、違和感のせいか、それとも――今まで“普通”だと思い込んでいたものが、ほんの少しだけズレたせいか。


 そして、陽は初めて、胸の奥で小さく思った。


 ――これ、ほんとに「普通」なのか?


 タブレットの画面には、まだ署名がないまま、白い欄がぽっかり空いていた。

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