第8話 咎人の名は折宮綾

 女は相当酔っているのか、足取りがおぼつかない。見ようによっては踊っているようでもある。



 いい気なものだ。



 これから殺されるとも知らずに。



 私は女の後を歩きながら、心の中でずっと念じていた。



 振り返るな!


 振り返るな!


 振り返るな!



 女の顔を見た瞬間に、怖じ気付いてしまうかもしれないからだ。



 だからといって、今さらやめるわけにはいかない。



 どうか私にこの「仕事」をやり遂げさせてください!



 幸い、女は相変わらず危なかっしい足取りで歩いてはいるものの、後方を確認する素振りすらない。

 誰かに尾行されているなんて、思いもしていないのだろう。



 平和な世界で生きて来た証拠か。



 いや、なんの心配も不安もないのなら、風俗で働いたりはしないか……。



 では、女が警戒しないのはなぜだ?



 諦めているのか?



 この世の中に、自分の行く末に、失望しているのか?



 だとしたら、私と同じだ。



 娘がいなかったら、とっくにこの世にいるチケットは破り捨てていたはずだから──。



 私は激しく頭を振った。



 考えるな!



 縁もゆかりもない女の身の上を想像して、勝手に親近感など抱くな! いざ行動を起こすときに、ためらいが出てしまうじゃないか!



 顎から、汗が滴り落ちた。無意識のうちに、息が荒くなる。



 もうすぐだ。



 ジャージのポケットに突っ込んだ両手が汗ばむ。



 渡された地図は、穴が開くほど見て覚えてきた。



 それでも不安は消えない。



 本当なら下見をしたかったが、指示書にはやらないよう注意書きされていたのだ。



 まだ歩くのだろうか。



 実際に歩くのは初めてなので、距離感がつかめない。それが余計に私の気持ちを不安にさせた。



 頭の中に描いた地図では、もうすぐ殺害する場所に差しかかるはずだ。



 指示書にあった通り、女は高架下に入って行く。



 私は素早く視線を走らせた。



 人はいない、はずだ。

 少なくとも私が確認できる範囲に気配を感じない。



 今だ!



 駆け出そうとして、私は足を止める。



 おもむろに女は、しゃがみ込んでいたからだ。



 予想外の行動に、私はたじろく。



 気分でも悪くなったのか?



 違う。



 しゃがんだ女の前に、古びた段ボールがある。



 仔猫がいた。



 女は餌をやっているのだ。



「アンタもひとりぼっちなんだね。アタシと一緒だね」



 独り言を呟く女の後ろ姿には、寂しさが滲み出ていた。



 この背中に、一体何を背負っているのだろう──



 また感情に浸りそうになり、私は自分の頬をつねる。



 この馬鹿!



 お前が殺す相手を憐れむな! 気に止めるな! アレは「物」だ! 人ではないんだ! しっかりしろ! 折宮綾!



 ここでやらないと、私はまた地獄へ逆戻りだ。



 自分を叱咤し、私は一気に女との距離を詰める。ポケットの中で、握り締めていたロープを出す。



 頭の中で、何度もシミュレーションをしてきた。



 きっとやれる!



 息を殺して女に近づく。



 私は背後から首にロープを引っかかけた。

 そして両手に持ったロープを自分の肩にかけると、女の体を背負うような格好になる。



 相手は私よりも小柄だ。問題ないはず──



 ところが、うまく女の体を背中に乗せられなかった。



 女がしゃがんだ体勢だったのが災いしたようだ。バランスを崩し、女もろとも私はコンクリートの上に倒れ込む。



 マズイ!



 すぐさま顔を上げる。



 ロープは女の首にかかったままだ。



 女はコンクリートの地面には額をつけながら、苦しげに咳き込んでいる。



 立ち上がった私は女の背中に馬乗りになると、改めてロープを締め上げる。



「グエエエッ!」



 おぞましいうめき声が上がる。



 女の爪が、私の腕に食い込む。



 また地面に倒れたが、今度はロープを離さなかった。私は尻餅をつきながら、両足で女の体をがっちりと固定する。



 油が切れたブリキのオモチャのように、ギギギギッといった感じで女は振り返る。



 血走った目が、殺人者を捉えていた。



 私の背筋に悪寒が走る。

 


 なんだ!?



 そんな目で私を見るな!



 私はさらに力を込める。

 数分間そうしていると、やがて女の全身から力が抜けるのを感じ取った。



 指示書には、息を吹き返す可能性があるため、しばらく首を締め続けるようにあった。



 私は忠実に実行する。



「ヒィ!」



 自分で殺しておきながら、急に恐怖が押し寄せて来た。



 肉の塊と化した女の体を乱暴に退ける。

 私は無様に転げながらなんとか立ち上がると、慌てて走り出す。



 逃げる途中、ジャージと帽子、それからボストンバッグを指示されたゴミ箱に捨てた。



 その後も無我夢中で走った。



 どうやって自宅に戻ったのか記憶にない。



 気がつくとマンスリーマンションの部屋の中に入った私は、後ろ手でドアを閉めていた。



 弾んだ息は、なかなか整わない。



 私は寝室に向かう。



 母の隣では、娘が規則正しい寝息を立てている。



「日向……」



 娘に向かって手を伸ばしたところで、私は手を引っ込めた。



 ゆっくりと後ずさると、静かに部屋を出る。



 バスルームに入り、服のままシャワーを浴びた。



 私には、娘を抱き上げるは資格はない。



 人殺し──



 女の顔が鮮明に蘇る。



 振り返った女は、笑っていた。



 まるで私を嘲るような、それでいて──



 沸々と怒りが込み上げてくる。



 もしかしてあの女は、私を憐んでいたのか!?



 なぜ!?



 風俗に堕ちた女のクセに!



《そういうアンタは人殺しだろ?》



 耳鳴りのように鼓膜の奥から、聞いたことがないはずの女の声が聞こえてきた。



《アンタはもう、娘を抱けない咎人とがにんだ》



《ご愁傷さま》



《一生、日陰を歩く人生だな。ザマァ!》



《アタシは先に逝かせてもらうよ!》



 幻聴だ。



 気にする必要はない。



 でも──



 女の嘲るような笑い声が、私の耳にこびりつき、いつまでも消えなかった……。

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