第7話 修羅の国へのチケット

「綾、どこに行くの?」



 午後11時。

 母に声をかけられた。玄関のタタキに座って靴紐を結んでいた私は体を震わせる。



 振り返った私は、精一杯の作り笑いを浮かべた。頬が引き攣っているのが自分でもわかる。



 なんとか取り繕わないと……。



「ご、ごめん、起こしちゃった?」



「それはいいんだけど──仕事?」



「う、うん……清掃スタッフが、急に来れなくなったらしくてさ」



「そうなんだ」



 うなずいてはいるものの、明らかに納得していないようだ。母の不安げな視線は、私と玄関のタタキに向けられている。



 私の傍には、母には見慣れないであろう大きなボストンバッグがあった。



 清掃の仕事のときは、家からユニホームのツナギを着て出かける。にも関わらず、この日はジーパンにTシャツといった姿だ。



 清掃の仕事に行くいつもの格好とはまるで違う。



 本来なら、取るに足らない違和感のはずだ。

 だが、つい先日、竜司が殺された。

 しかもやって来た刑事は、しつこいほど私のアリバイを確認していったのだ。

 私は疑われているのだろう。

 それらが相まって、母は不信感を募らせているのだ。



 どうにかして母を不安の払拭しないと!



 私は必死に取り繕う。



「今回の現場のオーナーさんは、めちゃくちゃ気難しい人でさ。

 作業着姿の人間が出入りするのを嫌がるんだよね」



 母の表情がさらに曇る。



「清掃の依頼をしておいて、作業着でうろちょろするなって言う人がいるの?」



「色んな人がいるもんだよ」



 困ったもんだよね、と私は苦笑いを浮かべる。



「じゃ、日向のことお願いね」



 いってらっしゃい、と母の言葉に見送られ、私は足早に家を出た。



 我ながら酷い言い訳をしてしまった。もっとマシな話ができなかったものか。



 母は勘がいい。



 竜司が殺されたと刑事から聞かされたあの夜から、母はやけに心配している。何かに勘づいていなければいいが……。



 まさか私が竜司を殺したとは思ってはいないだほうが、それでも何らかの形で私が関与しているのでは、と思っているのかもしれない。



 もちろん犯行時刻には母と一緒にいたのだから、物理的に不可能だ。



 だが、それでも母親としての勘なのか、それとも迷惑ばかりかけている私を信用していないか。



 おそらく、両方だろう。



 私は母に信頼されるようなことなんて何もしていない。それどころか、いつも心配させてばかりだ。



 現に今だって、見ず知らずの人間を殺そうとしているのだから。



 私は公園で渡されたジャージを着て帽子を目深に被る。



 そして電柱の影で待機するのだった。



 ここは派手なネオンが煌くソープランド街。



 あちこちから「すえた臭い」が漂って来て、鼻をつく。

 たぶん酔っ払いが吐いたのだろう。他にも小便の臭いがする。



 煌びやかなネオンに誤魔化されてしまうが、よく見るとここはゴミ溜めだ。



 なるべく鼻で息をしないようにしてしばらく待っていると、建物の中から1人の女が出て来るのを確認した。



 段ボールの中に入っていた写真と見比べる。



 左の肩甲骨の上あたりに、蝶のタトゥーが見えた。



 間違いない、あの女だ。



 これから私が殺す女──



 女の後を追って、そっと歩き出す。



 引き返すことのできない修羅への第一歩を、私は踏み出したのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る