第2話 ケダモノ、離れろ!

 ふざけやがって!


 ふざけやがって!


 ふざけやがって!



 私は腹を立てていた。



 あの後、私は金髪の男に背を向け、無言のまま自転車にまたがった。そして全力で漕いだ。



 コンビニが見えなくなるまで走ったら、ちょうど信号が赤になった。



 車はおろか、歩行者さえいない横断歩道を見ながら、私は息を弾ませる。



 心臓が胸を突き破るのではないかと思うほど、激しく脈打っていた。



 怒りが次から次へと湧いてくる。おさまる様子はない。



 あのヤロー!



 金髪の男は、きっと私の顔を見て彼氏か旦那にやられたのだと察したに違いない。

 転んだにしては、あまりにも派手に瞼や唇の傷が酷いため、容易に想像できただろう。



 からかってやろうと思い立ったわけだ。

 そのときの金髪の男の顔を思い浮かべる。きっと名案が閃いた、そんなふうに思っただろう。



 クソッタレ!



 散々悪態をついた後、たまらなく虚しくなった。



 惨めだ……。



 わかってる。


 私が本当に腹を立てているのは、金髪のじゃない。



 誰でも私が、私自分自身にムカついているのだ。



『旦那、殺してやろうか?』



 そう言われた時、一瞬だけ、ほんの一瞬だけだが、心がざわついた。



 本当に殺してくれるの?



 思わず口から出そうになった。



 できるはずがない。冗談に決まってる。冷静になって考えればすぐにわかったはずだ。



 それなのに──



 すがってしまった……。



 地獄を耐え抜くと決めたクセに、『旦那、殺しやろうか?』なんて世迷言に、気持ちが揺れた。



 手を伸ばして、その言葉にすがろうとしてしまったのだ。



 そんか自分に、たまらなく腹が立った。



 このまま帰りたくない……。



 スマートフォンの時計を見ると、午前2時を少し回ったところだった。



 私は向きを変えると、また一心不乱に自転車を漕ぎ出す。



 娘の顔が見たい。



 こんな時間に行ったとしても、娘は寝ているに決まってる。

 それに娘を預かってもらってる母は、何かあったのかと心配するだろう。



 それでも私は、娘の顔が見たかった。



 大通りを東に向かって走り、小さなラーメン屋の角を曲がる。すぐに二階建てのアパートが見えて来た。



 母と娘が暮らしている場所だ。



 決してオシャレとは言えない。



 年季が入っている建物の壁には、ところどころにひび割れが見える。それでも私がクズヤローと住んでいるボロアパートに比べると、はるかにマシだ。



 私は建物の裏にある駐輪場に自転車を停めて、一階の奥にある部屋に向かった。



 無意識に、足取りが弾む。



 問題は、母にこの顔の腫れや裂傷をどういうふうに言い訳するかだ。



 転んだ──と言ったところで信じないだろう。いや、顔を見た瞬間に、母はすべて察するはずだ。



 下手な言い訳をするだけ無駄か……。



 鍵を取り出してドアに手をかけた──その時だった。



 何かがおかしい。



 ドアが、施錠されていない。


 鍵をかけ忘れた?


 しっかり者の母が、そんなうっかりミスをするだろうか。



 私の疑問の答えは、ドアを開けてすぐに出た。



 息を呑む。



 愕然とした。



 下顎が震え、思考が停止する。



 台所で半裸になった母が、顔を腫らし、鼻から血を流して横たわっていた。



 そして虚な目をした母の股の間には、獣のように激しく腰を振る竜司──



「よう、綾か。アルバイト、じゃ、なかったのか?」



 息を弾ませ、竜司が唇の端を持ち上げる。



「お前より、ずいぶんシマりがいいな。お前の母親は、ババアのクセに、大したモンだ」



 これは名器だな、と言った竜司は顔を上げて恍惚の表情を浮かべた。



 私は何かを叫びながら、竜司に向かって突進する。



 殺してやる──そんな風な言葉を発していた気がするが、はっきりとは覚えていない。



 ただこのけだものを何とかして母から引き剥がさないと。



 それだけを考えていた。

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