🟥 12:59、効率のデッドライン

 ――時間を浪費することは、自由のひとつだ。



 トイレの個室の中、便座の蓋に腰掛け、背中を冷たい仕切りに預ける。

 この狭い空間は、孤立にも、過ちにも向いている。


 FPは17%まで下がっていた。

 システム警告が起動。耳の奥で、高周波のノイズが震える。まるで誰かが極めて低い声で、頭の中に囁いているようだった。

「……アウトプット中断……注意……低下……危険……」


 スマホを取り出し、メッセージ欄を開く。名前で検索する。

 画面に表示されたシステムの注意表示:

「接続強度:0」「アウトプット関連度:0%」「送信後、行動モニタリングが開始されます」


 メッセージ枠を開き、指先を止める。

「元気にしてる?」と書こうとする――警告ランプ、黄色。

 書き直す。「覚えているか」――反応なし。

 唯一、審査を通過したが、最も無力な言葉だった。


 指が送信ボタンに触れる瞬間、FPが13%に跳ね落ちる。

「第2レベル警報:ビジュアルトラッキング起動」

 画面に赤い文字が浮かぶ。だが、送信はもう終わっていた。

 目を閉じる。胸の奥から、何かが緩む感覚。

 これは崩壊ではない。


 胸に重く乗っていたものを、ようやく言葉にしただけだった。

 もし言葉が「エラー」だとするなら――

 このエラーは、自ら選んだものだ。


 送信ボタンを押しても、画面はすぐには暗転しなかった。

 一瞬だけ、ちらついた。その瞬間、都市のスカイラインが揺れて見えた気がした。

 そのあと、システムが記録を始める。


 FP:13%。

 ……だが、これは終わりではなかった。


 スマホを置き、深呼吸しようとしたが、システムノイズがまだ頭に響いていた。

「目的のない交流を検出中」「非アウトプット傾向を評価中」

 FP:12% → 11% → 10%。


 空気が重くなっていく。ドアが開かない。

 ロックが自動的に遅延された。行動の拡散を防ぐためだ。


 頭上に赤いランプが灯る――「観察対象リスト」入りのサイン。

 何も抵抗しなかった。

 FP:9% → 8%。


 誰かがドアを開ける。白い防塵ブーツの足が視界に入った。

 警察でも、上司でもない。

 ただの――「回収員」だった。

 体を支えられ、立たされる。何も言葉はない。


 FPは落ち続けていたが、不思議と崩れるような感覚はなかった。

 むしろ、どこか静けさが広がっていくのを感じていた。

 FP:7% ……→ 0%。


 システム音が止む。

 これが、今日一番の静寂だった。


 そのまま、連れて行かれる。

 誰も理由を聞かない。

 行き先も、誰も教えない。


 ――でも、わかっていた。

 これは罰ではない。

 ただ、自分が「社会からミュートされた」のだ。


 オフィスから連れ出されたとき、誰も言葉を発しなかった。

 誰も止めなかった。

 壊れかけた機械を見るような、そんな視線だった――

 それでも、なぜか、ほんの少しだけ自由だった。


 観察区域へ運ばれるあいだ、自分の頭の中には、あのメッセージだけが繰り返されていた。


「覚えているか」

 相手がこれを受け取ったかは分からない。

 それが価値あることだったかも分からない。


 ただ、確かなのは――

 自分はそれを、ちゃんと言葉にできた、ということだった。

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