【第6章 第六章 還る泥】
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泥繭(どろまゆ)の家
――紐解かれぬ禁忌と愛の形――
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【お題】祖母から聞いた村の禁忌
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【プロローグ】
「土は土に、水は水に。形あるものは、いつかその形を返さねばならない」
幼い頃、祖母が呪文のように唱えていた言葉が、私の耳の奥で、じっとりと濡れた苔のように張り付いている。
十年ぶりに踏み入れた故郷の土は、記憶よりも深く、暗い色をしていた。雨宮家の屋敷を取り囲む森は、まるで巨大な繭のように静まり返り、絶えず降る霧雨が、この世とあの世の境界を曖昧にぼかしていく。
通夜の席、蝋燭の揺らめきの中で見た親族たちの顔には、悲しみよりも濃い、何か異質な安堵が滲んでいた。祖母は最期に「お前を守りきった」と言い残したという。だが、裏庭の蔵から漏れ聞こえる微かな嗚咽が、その言葉を歪に反響させる。
私はまだ知らない。この泥濘(ぬかる)んだ土の下に、どれほどの時間が、あるいは命が、息を潜めて眠っているのかを。禁忌の扉に手を掛けた瞬間、一族が紡ぎ続けた永劫の繭が解かれることを。
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【第1章 第一章 雨の檻】
ワイパーが扇形に切り取る視界の先、雨煙にむせぶ山々が黒々と立ち塞がっていた。まるでこの世ならざる場所へ誘うかのように、車は県境のトンネルを抜け、私の故郷である雨宮の集落へと滑り込んでいく。
タクシーの運転手は、料金を受け取ると逃げるように去っていった。残されたのは、私と、降りしきる雨の音だけだ。十年ぶりに踏む故郷の土は、腐葉土と泥が混じり合ったような、甘く重たい異臭を放っている。この匂いを嗅いだ瞬間、私の肺の奥底に沈殿していた澱のような記憶が、じわりと浮き上がってくるのを感じた。
目の前に聳える雨宮の本家は、風雨に晒された黒い板壁が濡れそぼり、まるで巨大な軟体動物がうずくまっているかのような威圧感を放っていた。傘を叩く雨音が、鼓膜を執拗にノックする。
「……帰ってきてしまった」
口をついて出た言葉は、雨音にかき消された。私は無意識のうちに、左手首に巻かれた朱色の組紐を右手で強く握りしめていた。祖母が編んでくれたこの紐だけが、私の体をこの世に繋ぎ止める唯一の命綱であるかのように。
重たい引き戸を開けると、カビと線香が混ざった淀んだ空気が、冷たい塊となって顔に吹き付けた。薄暗い土間に、喪服姿の女性が一人、亡霊のように立っている。
「湊……さん、かね」
声をかけてきたのは、本家の叔母だった。昔は「湊ちゃん」と甲高い声で呼んでいたはずの彼女の声は、枯れ木が擦れるように乾いていた。
「ご無沙汰しております、叔母さん」
「……まさか、本当に帰ってくるとはね」
叔母は私の全身を舐めるように視線で這った。その眼差しには、久しぶりの再会を喜ぶ色は微塵もない。あるのは、手負いの獣を見るような憐れみと、そして隠しきれない「恐怖」だった。彼女は何を恐れているのか。私の背後にある闇か、それとも私自身か。彼女は視線を逸らすと、「姉さんが待ってるよ」と短く告げ、奥の闇へと消えていった。
広大な仏間は、幾重にも焚かれた線香の煙で白く霞んでいた。鴨居の長押には、歴代当主の遺影がずらりと並び、その全てが眼下の生者をねめつけるように下を見下ろしている。視線の集中する先、部屋の中央に設えられた祭壇に、祖母のフミは横たわっていた。
私は白木の数珠を握りしめ、棺の中を覗き込んだ。享年八十八。死に化粧を施された祖母の顔は、蝋細工のように白く、そして小さかった。生前、私を過保護なまでに愛し、そして村の因習で縛り付けた絶対者。その支配の呪縛が解けた安堵感が胸をよぎる。
「……おばあちゃん」
安らかな顔だ、そう思おうとした。だが、違った。蝋燭の炎が揺らぎ、陰影が動いた瞬間、私は息を呑んだ。
祖母の唇は、微かに、しかし確実に歪んでいたのだ。左の口角だけが引きつり、閉じられた瞼の下の眼球が、何かを訴えるかのように微細に動いている錯覚すら覚える。
それは笑みではない。恐怖に引きつった叫びか、あるいは私への警告か。死してなお、彼女の口元は、何かを――決して口にしてはならない言葉を、語りかけようとしていた。
背筋を冷たいものが走り抜ける。雨音に混じり、どこか遠く――裏庭の蔵の方角から、微かな軋み音が聞こえた気がした。
* * *
――余談「呪いの結び目」――
ところで、皆さまは「朱」という色が持つ本来の意味をご存知でしょうか。古来、朱は魔除けの色とされますが、同時に「血」の象徴でもあります。あの村では、迷子の子供の足に朱い紐を結ぶ風習があったそうです。それは迷子を家に連れ帰るためではなく、「あちら側」へ行ってしまった魂を、強引に現世という肉の器に縫い止めるための呪い(まじない)だったとか。湊さんが持たされていた組紐も、もしかすると誰かが解こうとするのを、必死に防いでいたのかもしれませんね。
* * *
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【第2章 第二章 崩れぬ貌】
降りしきる雨は夜の闇に溶け込み、雨宮家の屋敷をどろりとした幕で覆い尽くしていた。線香の白煙が低く淀む仏間で、私は祖母の遺影ではなく、生きた人間たちの視線が肌に突き刺さるのを感じていた。
読経が雨音に吸われていく中、焼香に訪れた親族たちは、棺の中の祖母に一瞥をくれると、すぐさまその眼を私へと向けた。それは、久しぶりに会う親戚に対する懐かしさや哀悼の眼差しではなかった。古美術品のひび割れを探す鑑定人のように、私の顔、首筋、そして着物の袖から覗く手首を、執拗に舐め回すような視線だった。
「……よく育ったねえ」
「ああ、まだ崩れていない」
「フミさんが丹精込めたからね」
背後で交わされるひそひそ声は、湿った空気のせいか、耳元で囁かれているように鮮明に響く。「崩れていない」。その奇妙な表現に、背筋に冷たいものが走る。彼らは私の健康を案じているのではない。もっと別の、私の知らない「何か」の保存状態を確認して安堵している、そんなおぞましさが胃の腑に重くのしかかった。
息苦しさに耐えかねて縁側へ出ると、本家の叔母が待ち構えていたかのように立っていた。彼女は私の顔を見ると、ふっと安堵の吐息を漏らし、私の左手首を掴んだ。そこには、幼い頃から肌身離さず身につけている朱色の組紐が巻かれている。
「湊さん、その紐。決して外してはいけないよ」
叔母の手は、氷のように冷たかった。彼女の瞳には、私への慈愛と、それを上回るほどの恐怖が同居していた。
「姉さんは、あんたを守りきったんだ。……人としての形を、繫ぎ止めるために」
意味を問いただそうとする私の言葉を遮るように、叔母は逃げるようにその場を去った。手首に残る叔母の冷たい感触と、締め付けられるような組紐の熱さが、私の不安を煽り立てた。
縁側から見渡す庭は、漆黒の闇に沈んでいた。その奥、鬱蒼とした竹林の向こうに、あの土蔵があるはずだった。
私の脳裏に、幼い日の記憶が蘇る。一度だけ、面白半分で蔵に近づいたことがあった。その時、血相を変えて飛んできた祖母の形相は、今でも夢に見るほど凄まじいものだった。
『あそこへ行ってはならん!』
祖母は私を抱きしめ、震える声でこう言ったのだ。
『お前は泥に戻りたいのか。あそこへ入れば、お前はもう二度と、元には戻れない』
泥に戻る。子供心にもその言葉は、死ぬことよりも恐ろしい響きを持っていた。祖母の過剰なまでの守護は、単なる愛情だったのか。それとも、私が「泥」にならないための監視だったのだろうか。
深夜、客たちが引き払い、屋敷が静寂を取り戻した頃だった。私は眠れずに、布団の中で雨音を聞いていた。
不意に、雨音とは異なる音が鼓膜を叩いた。
――ヒック、ヒック。
それは、しゃくりあげるような子供の泣き声だった。か細く、それでいて水を含んだように重い声。空耳かと思ったが、声は確かに裏庭の方角、あの竹林の奥から響いてくる。
まさか。こんな嵐の夜に、子供がいるはずがない。しかし、その声には聞き覚えがあった。かつて自分が泣いた時の声に似ているような、あるいはもっと根源的な、懐かしさすら覚える響き。
私は跳ね起き、障子を少しだけ開けた。濡れた竹の葉が擦れ合う音に混じり、また一声、あの子が私を呼ぶように泣いた。
湿った闇の向こうで、封印された蔵が、口を開けて私を待っている気がした。
* * *
――余談「見下ろす遺影」――
余談ですが、仏間に飾られた遺影について、ひとつ妙な噂がございます。通常、遺影というものは、残された家族を優しく見守るもの。しかし雨宮家の遺影は皆、少し伏し目がちに「下」を見ている。あれは、畳の下に眠る「何か」を見張っているのだと、村の古老が漏らしておりました。死してなお、目を逸らすことの許されない監視の役目。あの部屋で線香が絶えないのは、死者たちの視線が腐らぬよう、防腐代わりの煙を燻らせているからだとも言われております。
* * *
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【第3章 咎める風】
丑三つ時を過ぎても、屋根を打つ雨音は止む気配を見せない。重く湿った布団の中で寝返りを打つたび、古い畳と線香の混じった匂いが、生き物のように鼻腔へ纏わりついてくる。
眠りは浅く、泥沼の底を這うような夢と現の境界を彷徨っていた時だった。雨音の緞帳を引き裂くように、その音は届いた。
「……うう、……あけて」
風の唸りではない。明確な意志を持った、子供の啜り泣く声だ。それも、裏庭の竹林の奥、あの禁忌とされた蔵の方角から響いてくる。全身の産毛が逆立つような悪寒が背筋を駆け上がった。
私は上体を起こし、雨戸の閉ざされた窓を見つめた。幼い頃、祖母・フミに何度も言い聞かされた言葉が脳裏を掠める。『蔵に近づけば、泥に飲まれる』。
しかし、その声には不思議な引力があった。恐怖よりも深く、私の失われた記憶の琴線に触れるような、どこか懐かしく甘美な響き。まるで、私自身の半身が、あそこで泣いているかのような錯覚。
「……誰だ」
乾いた喉から漏れた問いかけは、湿度の高い闇に吸い込まれて消えた。雨脚は強まるばかりだが、泣き声は途切れない。むしろ、私が意識を向けたことに呼応するかのように、その悲哀の色を濃くしている気がした。
居ても立っても居られず、私は部屋を出た。廊下の板場は氷のように冷たく、素足の裏から体温を奪っていく。常夜灯の頼りない明かりの中、仏間の方角から人の気配がした。
「叔母さん?」
声をかけると、影の一つがびくりと震えた。本家の叔母だ。彼女は廊下の突き当たり、裏庭に面した雨戸の隙間から、一心不乱に外を覗き込んでいたのだ。私の存在に気づいた叔母は、弾かれたように振り返った。その顔色は蝋のように白く、目元は痙攣している。
「湊さん……起きていたのかね」
「あの声が、聞こえたんです。蔵の方から、子供が泣いているような……」
私がそう告げた瞬間、叔母の表情が凍りついた。能面のように強張った顔で、彼女は首を横に振る。
「声など、聞こえん。あれは風だ。竹林を抜ける風が、古蔵の隙間風となって鳴いているだけだ」
「ですが、あんなにはっきりと」
「風だと言っている!」
叔母の声が裏返った。その剣幕は、単なる否定ではなく、何かに脅える者の必死の懇願に近かった。
叔母はドスドスと音を立てて私に歩み寄ると、驚くほど強い力で私の腕を掴んだ。骨張った指が肉に食い込む。至近距離で見る彼女の瞳孔は開ききっており、焦点が定まっていない。
「いいか、湊さん。明日の朝一番で東京へお帰り。お姉さんが亡くなって、この家の『蓋』はもう閉まらないんだ」
「蓋、とは何のことです? 祖母は何を隠していたんですか」
「知らなくていい。知れば、お前も引きずり込まれる」
叔母の口から漏れる息は、腐った果実のような奇妙な甘い匂いがした。彼女は再び雨戸の方を振り返り、怯えるように声を潜めた。
「あれは、お前を待っているんだよ。十年も、二十年も、ずっと……泥の中で繭を作って」
意味のわからぬ言葉を羅列すると、叔母は私を突き放すように腕を離した。
「風だ。あれはただの風だ。……決して、耳を貸してはならない」
呪文のように繰り返しながら、叔母は逃げるように自室へと去っていった。取り残された私は、再び一人、廊下の闇に立ち尽くすしかなかった。
部屋に戻っても、耳の奥にはまだあの啜り泣きが残響していた。風だという叔母の言葉こそが、何よりの怪談のように思えてならなかった。
* * *
――余談「羽化しない蚕」――
ここで少し、蚕(かいこ)の話をいたしましょう。蚕は繭の中で蛹になり、やがて蛾となって空を飛びます。しかし、泥の中で育つという奇妙な蚕の伝説が、この地方には残っております。その蚕は決して羽化することなく、繭の中で何度も何度も脱皮を繰り返し、ドロドロの肉塊となって生き続けるのだとか。フミお婆さまが守り続けた蔵の匂い……それは、長い時間をかけて熟成された、終わりのない「生」の腐臭だったのかもしれません。
* * *
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【第4章 第四章 泥の筆跡】
雨脚は衰えるどころか、家屋全体を押し潰さんばかりに強まっていた。湿った瓦の匂いが、死者のための線香の香りと混じり合い、肺の奥にへばりつくような朝だった。
通夜が明けた屋敷は、重苦しい静寂と慌ただしさが奇妙に同居していた。本家の叔母たちは納棺の準備に追われ、僧侶への対応で広間を行き来している。私はその喧騒から逃れるように、廊下の突き当たりにある祖母の書斎へと足を向けた。
昨晩、蔵から聞こえたあの泣き声。そして叔母が見せた過剰なまでの拒絶反応。それらが私の内側にある「知ってはならない」という警鐘を鳴らし続けている。しかし、それ以上に強い衝動が私を突き動かしていた。失われた記憶の断片が、この部屋にあるような気がしてならなかったのだ。
祖母が生前、誰も立ち入らせなかった聖域。重い引き戸を開けると、長年蓄積された埃と、古びた紙の匂いが一気に押し寄せてきた。薄暗い室内には、祖母の執念がまだ残響のように漂っているようだった。
六畳ほどの書斎は、意外なほど簡素だった。壁一面の本棚には養蚕や民俗学に関する古書がぎっしりと並び、窓際の文机の上には、使い込まれた硯と筆が整然と置かれている。私は何かに導かれるように文机の前へと座り込んだ。
引き出しの中には、几帳面な祖母らしく、領収書や手紙の類が紐で括られていた。だが、一番奥の引き出しの、さらに底板の下に、一冊の和綴じの帳面が隠されているのを指先が見つけた。
表紙には何も書かれていない。手触りは湿り気を帯びてねっとりとしており、まるで生乾きの皮膚を撫でているような錯覚を覚えた。ページを捲ると、墨痕鮮やかな文字が目に飛び込んでくる。それは日記だった。日付は三十年以上前、私がまだ幼子だった頃のものである。
最初は淡々とした日常の記述だった。村の行事、蚕の生育状況、天候。だが、ページが進むにつれ、筆致は乱れ、内容は常軌を逸したものへと変貌していった。
『六月四日。失敗作。形が保てない。すぐに崩れてしまう。水が多すぎたのか』
『八月九日。また泣き声がする。魂が器に馴染んでいない証拠だ。哀れだが、土へ還すしかない』
『十月二日。取り替えが必要だ。今のままでは、あの子を守れない』
「……取り替え?」
思わず声が漏れた。紙面に踊る「泥」「器」「焼成」といった陶芸を思わせる言葉と、それらが指し示す「あの子」という対象。背筋に冷たいものが走る。これらは単なる創作のメモではない。もっと切実で、おぞましい儀式の記録だ。
震える指で次のページをめくる。そこには、はっきりと私の名前が記されていた。
『湊は特別だ。今度こそ、完璧な繭の中で守り抜かねばならない。外の世界の穢れに触れれば、また泥に戻ってしまうかもしれない』
呼吸が止まりそうになった。窓の外で雨が激しく窓を叩く音が、まるで粘土を叩きつける音のように聞こえる。私は無意識に、首から下げた朱色の組紐を握りしめていた。祖母は私を「守った」と言った。だが、それは人間として守ったのか、それとも別の「何か」として作り上げ、保存したということなのか。
自分の手を見る。血管が浮き出た皮膚。温かい血肉。これは本当に、人の肉体なのか。それとも、精巧に練り上げられた泥人形に過ぎないのか。めまいのような感覚に襲われたその時、階下から私の名を呼ぶ叔母の鋭い声が響いた。
私は日記を元の場所へと戻した。指先に残る湿った紙の感触は、いつまでも拭い去ることができなかった。
* * *
――余談「人喰いの若木」――
さて、蔵の奥にあった「継ぎ目のない白木の箱」。あれがどうやって作られたか、想像できますか? 木をくり抜いたのではありません。生きている若木の内側に「何か」を埋め込み、長い年月をかけて樹皮がそれを飲み込むのを待つのです。木と一体化したそれは、年輪という檻の中で、永遠に近い時を微睡むことになる。箱の中から音がするのは、中身がまだ、外の空気を求めて蠢いている証左なのかもしれませんね。
* * *
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【第5章 第五章 泥の胎盤】
雨脚は強まり、竹林全体が低い唸り声を上げているようだった。湿り気を帯びた風が、私の頬を冷たく、ねっとりと撫で上げる。
「湊さん、ならん! そこだけは開けてはならんのです!」
背後から叔母の悲鳴に近い叫びが響いた。普段の冷静さをかなぐり捨て、なりふり構わず私に追いすがろうとするその姿は、恐怖に歪んでいた。しかし、私の身体はまるで何かに操られているかのように、その制止を拒絶した。
錆びついた南京錠に手をかける。冷たい鉄の感触が指先から全身へと伝播し、心臓が早鐘を打つ。祖母が、一族が、あれほどまでに恐れ、隠そうとした場所。日記に記された「泥」と「失敗作」の意味を知らなければ、私は永遠にこの家に囚われたままだという確信があった。
「許してください、叔母さん」
短く告げ、私は古びた鍵穴に、祖母の書斎で見つけた小さな真鍮の鍵を差し込んだ。カチリ、と硬質な音が雨音に混じる。重厚な土壁の扉が、軋み声を上げてゆっくりと口を開いた。途端、鼻をついたのは、濃厚な土の匂いと、甘く熟れた果実が腐りかけたような、むせ返る異臭だった。
スマートフォンのライトが切り裂いた闇の先で、私は息を飲んだ。蔵の床には、足の踏み場もないほどに「それ」が転がっていたからだ。
泥だ。いや、泥で象られた、人の形をした何かだった。
大きさは様々だった。赤子のようなものから、当時の私と同じくらいの背丈のものまで。それらは一様に目鼻立ちが曖昧で、あるものは腕が欠け、あるものは顔が溶け崩れている。まるで、焼き上げられることのなかった粘土細工の墓場だ。
一歩足を踏み出すたびに、乾いた泥が靴底で砕け、ジャリリという不快な音が響く。それはまるで、かつて生きようとした何かの骨を踏み砕いているような錯覚を私に与えた。
「……失敗作」
祖母の日記にあった言葉が、脳裏を掠める。これらはすべて、何者かになろうとしてなれなかった残骸なのか。無数の泥人形たちは、うつろな窪みだけの眼窩で、一斉に私を見上げているようだった。
蔵の最奥、祭壇のように一段高くなった場所に、その箱は安置されていた。周囲の泥汚れとは一線を画す、清浄な白木の箱。継ぎ目一つない滑らかな表面は、微かな燐光を放っているようにさえ見える。
私は震える手で、その蓋に手をかけた。重い蓋が持ち上がると同時に、先ほどの腐敗臭が爆発的に膨れ上がり、私は思わず口元を覆った。
中には、絹の布に包まれた「何か」が横たわっていた。
恐る恐る布をめくる。そこにあったのは、干からび、黒ずんではいるものの、紛れもなく人間の子供の遺体だった。
――いや、違う。
その顔立ちに、私は戦慄した。半ば白骨化し、皮膚が垂れ下がってはいるが、その骨格、残された黒子の位置、そして何より、遺体の首に巻き付けられた朱色の組紐。それは、私が幼い頃から肌身離さず持たされているお守りと、全く同じものだった。
そこに横たわっていたのは、十歳前後の姿で時を止めた、紛れもない「私」だった。
「ああ……見てしまったのですね」
入り口で立ち尽くす叔母の声は、もはや叫びではなく、深い溜息のようだった。
私は箱の中の「私」と、自分の手を見比べた。私の手は温かい。血管が浮き、血が通っている。しかし、目の前の箱の中で朽ちている子供こそが、本来あるべき「雨宮湊」の成れの果てだという直感が、冷たい刃物のように理性を切り刻んでいく。
では、今ここに立って思考している「私」は一体何なのか。
足元に転がる無数の泥人形たち。失敗作の山。そして、成功作としての私。
「おばあさまは、お前を守りたかったのですよ」
叔母の言葉が、呪詛のように鼓膜にこびりつく。雨音が遠のき、代わりに私の内側で、泥が崩れるような音が聞こえ始めた。
箱の中の空洞な瞳が、作り物の私を嘲笑うように見つめていた。
* * *
――余談「帰ってきたモノ」――
話は変わりますが、この村には「神隠し」など存在しない、という言い伝えがあります。いなくなった者は、必ず「戻ってくる」からです。たとえ姿形が少し変わっていても、記憶が曖昧でも、村人はそれを本人として迎え入れねばなりません。叔母様が湊さんに向けた、あの怯えたような視線。それは、十年ぶりに帰ってきた甥が、かつて自分たちが埋めたはずの「何か」と同じ顔をして笑っていることへの、根源的な恐怖だったのではないでしょうか。
* * *
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【第6章 第六章 還る泥】
蔵の中に充満する空気は、湿り気という生易しいものではなく、肺腑を塞ぐ泥の質量そのものだった。私は白木の箱の中にある「私」を見下ろしながら、立ち尽くしていた。
箱の中に横たわる小さな骸は、紛れもなく私だった。三十年前に時を止めた少年の顔には、腐敗の跡こそあれど、今の私が鏡で見る面影が色濃く残っている。その瞬間、脳裏に白い霧がかかっていた「空白の十年間」の意味が氷解した。記憶がないのではない。そもそも、記憶すべき「生」がなかったのだ。私は、あの日死んだ孫を認められなかった祖母が、妄執によって捏ね上げた泥の模造品に過ぎない。不意に、私の喉の奥から乾いた笑いが漏れた。だがその声は、人間の喉が震える音ではなく、土塊が擦れ合うような、ざらついた響きを帯びていた。私の存在そのものが、この雨宮家という巨大な繭の中で紡がれた、哀れで滑稽な怪談だったのだ。
「気づいてしまったんだね」
背後で、叔母の押し殺した声がした。振り返ると、彼女は恐怖ではなく、深い憐憫の眼差しで私を見つめている。
「姉さんは、どうしても諦めきれなかった。あの子が川で亡くなったあの日から、姉さんは狂ったように裏山の土を掘り始めたのさ」
叔母の語る言葉は、遠い夢のように響く。祖母は、禁忌とされていた一族の秘術を用い、私の魂を無理やりこの泥の器に縛り付けたのだという。「お前を守りきった」という祖母の最期の言葉は、私が人間としての死を迎える前に、彼女自身の命が尽きるまでこの虚構を維持し切った、という勝利宣言だったのだ。私の手首に巻かれた朱色の組紐が、音もなくぱらりと解け落ちた。それは、術者である祖母の死によって、この身体を繋ぎ止めていた最後の枷が外れた合図だった。
急激な倦怠感が私を襲った。まるで重力が何倍にも膨れ上がったかのように、膝が折れ、蔵の冷たい床に崩れ落ちる。支えようと床についた私の右手に、奇妙な違和感が走った。痛みはない。ただ、感覚が消失していく。
目の前で、私の人差し指が、乾燥した粘土細工のようにひび割れたかと思うと、ぼろりと音を立てて崩れ落ちた。断面から血は流れない。そこにあるのは、黒く湿った、無機質な泥だけだった。
「ああ、そうか」
私は恐怖よりも先に、深い安堵を覚えた。指先だけでなく、腕が、足が、徐々に形を失っていく。私は人間として死ぬのではない。ただ、元の泥に還るだけなのだ。血管を流れていたと思っていた温かい血も、鼓動を刻んでいた心臓も、すべては祖母の愛と狂気が作り出した幻影だった。
視界が暗く濁っていく。もう目蓋を開けているのか閉じているのかもわからない。私の輪郭は溶け出し、蔵の床と、そして床下に眠る無数の失敗作たちと混ざり合っていく。雨音が遠く聞こえる。それは、祖母が私を捏ねていた時の、あの優しい子守唄に似ていた。
泥に沈む感覚は、母の胎内に戻るように暖かく、甘美だ。意識の端で、叔母が何かを叫んでいるのが聞こえた気がしたが、それもすぐに泥濘の中へ吸い込まれて消えた。私はもう、湊ではない。雨宮家の、雨と土の記憶そのものへと還っていく。
深い、深い、泥の繭の中へ。私はようやく、誰にも邪魔されることのない、永遠の眠りにつくことができる。
蔵の床には、形を失った黒い土の塊と、古びた朱色の組紐だけが静かに残されていた。
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