【第5章 第五章 泥の胎盤】

 雨脚は強まり、竹林全体が低い唸り声を上げているようだった。湿り気を帯びた風が、私の頬を冷たく、ねっとりと撫で上げる。


 「湊さん、ならん! そこだけは開けてはならんのです!」


 背後から叔母の悲鳴に近い叫びが響いた。普段の冷静さをかなぐり捨て、なりふり構わず私に追いすがろうとするその姿は、恐怖に歪んでいた。しかし、私の身体はまるで何かに操られているかのように、その制止を拒絶した。

 錆びついた南京錠に手をかける。冷たい鉄の感触が指先から全身へと伝播し、心臓が早鐘を打つ。祖母が、一族が、あれほどまでに恐れ、隠そうとした場所。日記に記された「泥」と「失敗作」の意味を知らなければ、私は永遠にこの家に囚われたままだという確信があった。


 「許してください、叔母さん」


 短く告げ、私は古びた鍵穴に、祖母の書斎で見つけた小さな真鍮の鍵を差し込んだ。カチリ、と硬質な音が雨音に混じる。重厚な土壁の扉が、軋み声を上げてゆっくりと口を開いた。途端、鼻をついたのは、濃厚な土の匂いと、甘く熟れた果実が腐りかけたような、むせ返る異臭だった。


 スマートフォンのライトが切り裂いた闇の先で、私は息を飲んだ。蔵の床には、足の踏み場もないほどに「それ」が転がっていたからだ。


 泥だ。いや、泥で象られた、人の形をした何かだった。


 大きさは様々だった。赤子のようなものから、当時の私と同じくらいの背丈のものまで。それらは一様に目鼻立ちが曖昧で、あるものは腕が欠け、あるものは顔が溶け崩れている。まるで、焼き上げられることのなかった粘土細工の墓場だ。

 一歩足を踏み出すたびに、乾いた泥が靴底で砕け、ジャリリという不快な音が響く。それはまるで、かつて生きようとした何かの骨を踏み砕いているような錯覚を私に与えた。


 「……失敗作」


 祖母の日記にあった言葉が、脳裏を掠める。これらはすべて、何者かになろうとしてなれなかった残骸なのか。無数の泥人形たちは、うつろな窪みだけの眼窩で、一斉に私を見上げているようだった。


 蔵の最奥、祭壇のように一段高くなった場所に、その箱は安置されていた。周囲の泥汚れとは一線を画す、清浄な白木の箱。継ぎ目一つない滑らかな表面は、微かな燐光を放っているようにさえ見える。


 私は震える手で、その蓋に手をかけた。重い蓋が持ち上がると同時に、先ほどの腐敗臭が爆発的に膨れ上がり、私は思わず口元を覆った。


 中には、絹の布に包まれた「何か」が横たわっていた。

 恐る恐る布をめくる。そこにあったのは、干からび、黒ずんではいるものの、紛れもなく人間の子供の遺体だった。


 ――いや、違う。


 その顔立ちに、私は戦慄した。半ば白骨化し、皮膚が垂れ下がってはいるが、その骨格、残された黒子の位置、そして何より、遺体の首に巻き付けられた朱色の組紐。それは、私が幼い頃から肌身離さず持たされているお守りと、全く同じものだった。


 そこに横たわっていたのは、十歳前後の姿で時を止めた、紛れもない「私」だった。


 「ああ……見てしまったのですね」


 入り口で立ち尽くす叔母の声は、もはや叫びではなく、深い溜息のようだった。

 私は箱の中の「私」と、自分の手を見比べた。私の手は温かい。血管が浮き、血が通っている。しかし、目の前の箱の中で朽ちている子供こそが、本来あるべき「雨宮湊」の成れの果てだという直感が、冷たい刃物のように理性を切り刻んでいく。


 では、今ここに立って思考している「私」は一体何なのか。

 足元に転がる無数の泥人形たち。失敗作の山。そして、成功作としての私。


 「おばあさまは、お前を守りたかったのですよ」


 叔母の言葉が、呪詛のように鼓膜にこびりつく。雨音が遠のき、代わりに私の内側で、泥が崩れるような音が聞こえ始めた。


            箱の中の空洞な瞳が、作り物の私を嘲笑うように見つめていた。

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