【第4章 第四章 泥の筆跡】
雨脚は衰えるどころか、家屋全体を押し潰さんばかりに強まっていた。湿った瓦の匂いが、死者のための線香の香りと混じり合い、肺の奥にへばりつくような朝だった。
通夜が明けた屋敷は、重苦しい静寂と慌ただしさが奇妙に同居していた。本家の叔母たちは納棺の準備に追われ、僧侶への対応で広間を行き来している。私はその喧騒から逃れるように、廊下の突き当たりにある祖母の書斎へと足を向けた。
昨晩、蔵から聞こえたあの泣き声。そして叔母が見せた過剰なまでの拒絶反応。それらが私の内側にある「知ってはならない」という警鐘を鳴らし続けている。しかし、それ以上に強い衝動が私を突き動かしていた。失われた記憶の断片が、この部屋にあるような気がしてならなかったのだ。
祖母が生前、誰も立ち入らせなかった聖域。重い引き戸を開けると、長年蓄積された埃と、古びた紙の匂いが一気に押し寄せてきた。薄暗い室内には、祖母の執念がまだ残響のように漂っているようだった。
六畳ほどの書斎は、意外なほど簡素だった。壁一面の本棚には養蚕や民俗学に関する古書がぎっしりと並び、窓際の文机の上には、使い込まれた硯と筆が整然と置かれている。私は何かに導かれるように文机の前へと座り込んだ。
引き出しの中には、几帳面な祖母らしく、領収書や手紙の類が紐で括られていた。だが、一番奥の引き出しの、さらに底板の下に、一冊の和綴じの帳面が隠されているのを指先が見つけた。
表紙には何も書かれていない。手触りは湿り気を帯びてねっとりとしており、まるで生乾きの皮膚を撫でているような錯覚を覚えた。ページを捲ると、墨痕鮮やかな文字が目に飛び込んでくる。それは日記だった。日付は三十年以上前、私がまだ幼子だった頃のものである。
最初は淡々とした日常の記述だった。村の行事、蚕の生育状況、天候。だが、ページが進むにつれ、筆致は乱れ、内容は常軌を逸したものへと変貌していった。
『六月四日。失敗作。形が保てない。すぐに崩れてしまう。水が多すぎたのか』
『八月九日。また泣き声がする。魂が器に馴染んでいない証拠だ。哀れだが、土へ還すしかない』
『十月二日。取り替えが必要だ。今のままでは、あの子を守れない』
「……取り替え?」
思わず声が漏れた。紙面に踊る「泥」「器」「焼成」といった陶芸を思わせる言葉と、それらが指し示す「あの子」という対象。背筋に冷たいものが走る。これらは単なる創作のメモではない。もっと切実で、おぞましい儀式の記録だ。
震える指で次のページをめくる。そこには、はっきりと私の名前が記されていた。
『湊は特別だ。今度こそ、完璧な繭の中で守り抜かねばならない。外の世界の穢れに触れれば、また泥に戻ってしまうかもしれない』
呼吸が止まりそうになった。窓の外で雨が激しく窓を叩く音が、まるで粘土を叩きつける音のように聞こえる。私は無意識に、首から下げた朱色の組紐を握りしめていた。祖母は私を「守った」と言った。だが、それは人間として守ったのか、それとも別の「何か」として作り上げ、保存したということなのか。
自分の手を見る。血管が浮き出た皮膚。温かい血肉。これは本当に、人の肉体なのか。それとも、精巧に練り上げられた泥人形に過ぎないのか。めまいのような感覚に襲われたその時、階下から私の名を呼ぶ叔母の鋭い声が響いた。
私は日記を元の場所へと戻した。指先に残る湿った紙の感触は、いつまでも拭い去ることができなかった。
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