【第3章 咎める風】

========================================

  泥繭(どろまゆ)の家

  ――紐解かれぬ禁忌と愛の形――

========================================


【お題】祖母から聞いた村の禁忌


――――――――――――――――――――


【プロローグ】


「土は土に、水は水に。形あるものは、いつかその形を返さねばならない」


幼い頃、祖母が呪文のように唱えていた言葉が、私の耳の奥で、じっとりと濡れた苔のように張り付いている。

十年ぶりに踏み入れた故郷の土は、記憶よりも深く、暗い色をしていた。雨宮家の屋敷を取り囲む森は、まるで巨大な繭のように静まり返り、絶えず降る霧雨が、この世とあの世の境界を曖昧にぼかしていく。


通夜の席、蝋燭の揺らめきの中で見た親族たちの顔には、悲しみよりも濃い、何か異質な安堵が滲んでいた。祖母は最期に「お前を守りきった」と言い残したという。だが、裏庭の蔵から漏れ聞こえる微かな嗚咽が、その言葉を歪に反響させる。


私はまだ知らない。この泥濘(ぬかる)んだ土の下に、どれほどの時間が、あるいは命が、息を潜めて眠っているのかを。禁忌の扉に手を掛けた瞬間、一族が紡ぎ続けた永劫の繭が解かれることを。


――――――――――――――――――――


【第1章 第一章 雨の檻】


 ワイパーが扇形に切り取る視界の先、雨煙にむせぶ山々が黒々と立ち塞がっていた。まるでこの世ならざる場所へ誘うかのように、車は県境のトンネルを抜け、私の故郷である雨宮の集落へと滑り込んでいく。


 タクシーの運転手は、料金を受け取ると逃げるように去っていった。残されたのは、私と、降りしきる雨の音だけだ。十年ぶりに踏む故郷の土は、腐葉土と泥が混じり合ったような、甘く重たい異臭を放っている。この匂いを嗅いだ瞬間、私の肺の奥底に沈殿していた澱のような記憶が、じわりと浮き上がってくるのを感じた。

 目の前に聳える雨宮の本家は、風雨に晒された黒い板壁が濡れそぼり、まるで巨大な軟体動物がうずくまっているかのような威圧感を放っていた。傘を叩く雨音が、鼓膜を執拗にノックする。

 「……帰ってきてしまった」

 口をついて出た言葉は、雨音にかき消された。私は無意識のうちに、左手首に巻かれた朱色の組紐を右手で強く握りしめていた。祖母が編んでくれたこの紐だけが、私の体をこの世に繋ぎ止める唯一の命綱であるかのように。


 重たい引き戸を開けると、カビと線香が混ざった淀んだ空気が、冷たい塊となって顔に吹き付けた。薄暗い土間に、喪服姿の女性が一人、亡霊のように立っている。

 「湊……さん、かね」

 声をかけてきたのは、本家の叔母だった。昔は「湊ちゃん」と甲高い声で呼んでいたはずの彼女の声は、枯れ木が擦れるように乾いていた。

 「ご無沙汰しております、叔母さん」

 「……まさか、本当に帰ってくるとはね」

 叔母は私の全身を舐めるように視線で這った。その眼差しには、久しぶりの再会を喜ぶ色は微塵もない。あるのは、手負いの獣を見るような憐れみと、そして隠しきれない「恐怖」だった。彼女は何を恐れているのか。私の背後にある闇か、それとも私自身か。彼女は視線を逸らすと、「姉さんが待ってるよ」と短く告げ、奥の闇へと消えていった。


 広大な仏間は、幾重にも焚かれた線香の煙で白く霞んでいた。鴨居の長押には、歴代当主の遺影がずらりと並び、その全てが眼下の生者をねめつけるように下を見下ろしている。視線の集中する先、部屋の中央に設えられた祭壇に、祖母のフミは横たわっていた。

 私は白木の数珠を握りしめ、棺の中を覗き込んだ。享年八十八。死に化粧を施された祖母の顔は、蝋細工のように白く、そして小さかった。生前、私を過保護なまでに愛し、そして村の因習で縛り付けた絶対者。その支配の呪縛が解けた安堵感が胸をよぎる。

 「……おばあちゃん」

 安らかな顔だ、そう思おうとした。だが、違った。蝋燭の炎が揺らぎ、陰影が動いた瞬間、私は息を呑んだ。

 祖母の唇は、微かに、しかし確実に歪んでいたのだ。左の口角だけが引きつり、閉じられた瞼の下の眼球が、何かを訴えるかのように微細に動いている錯覚すら覚える。

 それは笑みではない。恐怖に引きつった叫びか、あるいは私への警告か。死してなお、彼女の口元は、何かを――決して口にしてはならない言葉を、語りかけようとしていた。


            背筋を冷たいものが走り抜ける。雨音に混じり、どこか遠く――裏庭の蔵の方角から、微かな軋み音が聞こえた気がした。



  * * *


 ――余談「呪いの結び目」――


 ところで、皆さまは「朱」という色が持つ本来の意味をご存知でしょうか。古来、朱は魔除けの色とされますが、同時に「血」の象徴でもあります。あの村では、迷子の子供の足に朱い紐を結ぶ風習があったそうです。それは迷子を家に連れ帰るためではなく、「あちら側」へ行ってしまった魂を、強引に現世という肉の器に縫い止めるための呪い(まじない)だったとか。湊さんが持たされていた組紐も、もしかすると誰かが解こうとするのを、必死に防いでいたのかもしれませんね。


  * * *


――――――――――――――――――――


【第2章 第二章 崩れぬ貌】


 降りしきる雨は夜の闇に溶け込み、雨宮家の屋敷をどろりとした幕で覆い尽くしていた。線香の白煙が低く淀む仏間で、私は祖母の遺影ではなく、生きた人間たちの視線が肌に突き刺さるのを感じていた。


 読経が雨音に吸われていく中、焼香に訪れた親族たちは、棺の中の祖母に一瞥をくれると、すぐさまその眼を私へと向けた。それは、久しぶりに会う親戚に対する懐かしさや哀悼の眼差しではなかった。古美術品のひび割れを探す鑑定人のように、私の顔、首筋、そして着物の袖から覗く手首を、執拗に舐め回すような視線だった。

 「……よく育ったねえ」

 「ああ、まだ崩れていない」

 「フミさんが丹精込めたからね」

 背後で交わされるひそひそ声は、湿った空気のせいか、耳元で囁かれているように鮮明に響く。「崩れていない」。その奇妙な表現に、背筋に冷たいものが走る。彼らは私の健康を案じているのではない。もっと別の、私の知らない「何か」の保存状態を確認して安堵している、そんなおぞましさが胃の腑に重くのしかかった。


 息苦しさに耐えかねて縁側へ出ると、本家の叔母が待ち構えていたかのように立っていた。彼女は私の顔を見ると、ふっと安堵の吐息を漏らし、私の左手首を掴んだ。そこには、幼い頃から肌身離さず身につけている朱色の組紐が巻かれている。

 「湊さん、その紐。決して外してはいけないよ」

 叔母の手は、氷のように冷たかった。彼女の瞳には、私への慈愛と、それを上回るほどの恐怖が同居していた。

 「姉さんは、あんたを守りきったんだ。……人としての形を、繫ぎ止めるために」

 意味を問いただそうとする私の言葉を遮るように、叔母は逃げるようにその場を去った。手首に残る叔母の冷たい感触と、締め付けられるような組紐の熱さが、私の不安を煽り立てた。


 縁側から見渡す庭は、漆黒の闇に沈んでいた。その奥、鬱蒼とした竹林の向こうに、あの土蔵があるはずだった。

 私の脳裏に、幼い日の記憶が蘇る。一度だけ、面白半分で蔵に近づいたことがあった。その時、血相を変えて飛んできた祖母の形相は、今でも夢に見るほど凄まじいものだった。

 『あそこへ行ってはならん!』

 祖母は私を抱きしめ、震える声でこう言ったのだ。

 『お前は泥に戻りたいのか。あそこへ入れば、お前はもう二度と、元には戻れない』

 泥に戻る。子供心にもその言葉は、死ぬことよりも恐ろしい響きを持っていた。祖母の過剰なまでの守護は、単なる愛情だったのか。それとも、私が「泥」にならないための監視だったのだろうか。


 深夜、客たちが引き払い、屋敷が静寂を取り戻した頃だった。私は眠れずに、布団の中で雨音を聞いていた。

 不意に、雨音とは異なる音が鼓膜を叩いた。

 ――ヒック、ヒック。

 それは、しゃくりあげるような子供の泣き声だった。か細く、それでいて水を含んだように重い声。空耳かと思ったが、声は確かに裏庭の方角、あの竹林の奥から響いてくる。

 まさか。こんな嵐の夜に、子供がいるはずがない。しかし、その声には聞き覚えがあった。かつて自分が泣いた時の声に似ているような、あるいはもっと根源的な、懐かしさすら覚える響き。

 私は跳ね起き、障子を少しだけ開けた。濡れた竹の葉が擦れ合う音に混じり、また一声、あの子が私を呼ぶように泣いた。


            湿った闇の向こうで、封印された蔵が、口を開けて私を待っている気がした。



  * * *


 ――余談「見下ろす遺影」――


 余談ですが、仏間に飾られた遺影について、ひとつ妙な噂がございます。通常、遺影というものは、残された家族を優しく見守るもの。しかし雨宮家の遺影は皆、少し伏し目がちに「下」を見ている。あれは、畳の下に眠る「何か」を見張っているのだと、村の古老が漏らしておりました。死してなお、目を逸らすことの許されない監視の役目。あの部屋で線香が絶えないのは、死者たちの視線が腐らぬよう、防腐代わりの煙を燻らせているからだとも言われております。


  * * *


――――――――――――――――――――


【第3章 咎める風】


 丑三つ時を過ぎても、屋根を打つ雨音は止む気配を見せない。重く湿った布団の中で寝返りを打つたび、古い畳と線香の混じった匂いが、生き物のように鼻腔へ纏わりついてくる。


 眠りは浅く、泥沼の底を這うような夢と現の境界を彷徨っていた時だった。雨音の緞帳を引き裂くように、その音は届いた。


 「……うう、……あけて」


 風の唸りではない。明確な意志を持った、子供の啜り泣く声だ。それも、裏庭の竹林の奥、あの禁忌とされた蔵の方角から響いてくる。全身の産毛が逆立つような悪寒が背筋を駆け上がった。


 私は上体を起こし、雨戸の閉ざされた窓を見つめた。幼い頃、祖母・フミに何度も言い聞かされた言葉が脳裏を掠める。『蔵に近づけば、泥に飲まれる』。

 しかし、その声には不思議な引力があった。恐怖よりも深く、私の失われた記憶の琴線に触れるような、どこか懐かしく甘美な響き。まるで、私自身の半身が、あそこで泣いているかのような錯覚。


 「……誰だ」


 乾いた喉から漏れた問いかけは、湿度の高い闇に吸い込まれて消えた。雨脚は強まるばかりだが、泣き声は途切れない。むしろ、私が意識を向けたことに呼応するかのように、その悲哀の色を濃くしている気がした。


 居ても立っても居られず、私は部屋を出た。廊下の板場は氷のように冷たく、素足の裏から体温を奪っていく。常夜灯の頼りない明かりの中、仏間の方角から人の気配がした。


 「叔母さん?」


 声をかけると、影の一つがびくりと震えた。本家の叔母だ。彼女は廊下の突き当たり、裏庭に面した雨戸の隙間から、一心不乱に外を覗き込んでいたのだ。私の存在に気づいた叔母は、弾かれたように振り返った。その顔色は蝋のように白く、目元は痙攣している。


 「湊さん……起きていたのかね」

 「あの声が、聞こえたんです。蔵の方から、子供が泣いているような……」


 私がそう告げた瞬間、叔母の表情が凍りついた。能面のように強張った顔で、彼女は首を横に振る。


 「声など、聞こえん。あれは風だ。竹林を抜ける風が、古蔵の隙間風となって鳴いているだけだ」

 「ですが、あんなにはっきりと」

 「風だと言っている!」


 叔母の声が裏返った。その剣幕は、単なる否定ではなく、何かに脅える者の必死の懇願に近かった。


 叔母はドスドスと音を立てて私に歩み寄ると、驚くほど強い力で私の腕を掴んだ。骨張った指が肉に食い込む。至近距離で見る彼女の瞳孔は開ききっており、焦点が定まっていない。


 「いいか、湊さん。明日の朝一番で東京へお帰り。お姉さんが亡くなって、この家の『蓋』はもう閉まらないんだ」

 「蓋、とは何のことです? 祖母は何を隠していたんですか」

 「知らなくていい。知れば、お前も引きずり込まれる」


 叔母の口から漏れる息は、腐った果実のような奇妙な甘い匂いがした。彼女は再び雨戸の方を振り返り、怯えるように声を潜めた。


 「あれは、お前を待っているんだよ。十年も、二十年も、ずっと……泥の中で繭を作って」


 意味のわからぬ言葉を羅列すると、叔母は私を突き放すように腕を離した。

 「風だ。あれはただの風だ。……決して、耳を貸してはならない」


 呪文のように繰り返しながら、叔母は逃げるように自室へと去っていった。取り残された私は、再び一人、廊下の闇に立ち尽くすしかなかった。


            部屋に戻っても、耳の奥にはまだあの啜り泣きが残響していた。風だという叔母の言葉こそが、何よりの怪談のように思えてならなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る