【第2章 第二章 崩れぬ貌】

 降りしきる雨は夜の闇に溶け込み、雨宮家の屋敷をどろりとした幕で覆い尽くしていた。線香の白煙が低く淀む仏間で、私は祖母の遺影ではなく、生きた人間たちの視線が肌に突き刺さるのを感じていた。


 読経が雨音に吸われていく中、焼香に訪れた親族たちは、棺の中の祖母に一瞥をくれると、すぐさまその眼を私へと向けた。それは、久しぶりに会う親戚に対する懐かしさや哀悼の眼差しではなかった。古美術品のひび割れを探す鑑定人のように、私の顔、首筋、そして着物の袖から覗く手首を、執拗に舐め回すような視線だった。

 「……よく育ったねえ」

 「ああ、まだ崩れていない」

 「フミさんが丹精込めたからね」

 背後で交わされるひそひそ声は、湿った空気のせいか、耳元で囁かれているように鮮明に響く。「崩れていない」。その奇妙な表現に、背筋に冷たいものが走る。彼らは私の健康を案じているのではない。もっと別の、私の知らない「何か」の保存状態を確認して安堵している、そんなおぞましさが胃の腑に重くのしかかった。


 息苦しさに耐えかねて縁側へ出ると、本家の叔母が待ち構えていたかのように立っていた。彼女は私の顔を見ると、ふっと安堵の吐息を漏らし、私の左手首を掴んだ。そこには、幼い頃から肌身離さず身につけている朱色の組紐が巻かれている。

 「湊さん、その紐。決して外してはいけないよ」

 叔母の手は、氷のように冷たかった。彼女の瞳には、私への慈愛と、それを上回るほどの恐怖が同居していた。

 「姉さんは、あんたを守りきったんだ。……人としての形を、繫ぎ止めるために」

 意味を問いただそうとする私の言葉を遮るように、叔母は逃げるようにその場を去った。手首に残る叔母の冷たい感触と、締め付けられるような組紐の熱さが、私の不安を煽り立てた。


 縁側から見渡す庭は、漆黒の闇に沈んでいた。その奥、鬱蒼とした竹林の向こうに、あの土蔵があるはずだった。

 私の脳裏に、幼い日の記憶が蘇る。一度だけ、面白半分で蔵に近づいたことがあった。その時、血相を変えて飛んできた祖母の形相は、今でも夢に見るほど凄まじいものだった。

 『あそこへ行ってはならん!』

 祖母は私を抱きしめ、震える声でこう言ったのだ。

 『お前は泥に戻りたいのか。あそこへ入れば、お前はもう二度と、元には戻れない』

 泥に戻る。子供心にもその言葉は、死ぬことよりも恐ろしい響きを持っていた。祖母の過剰なまでの守護は、単なる愛情だったのか。それとも、私が「泥」にならないための監視だったのだろうか。


 深夜、客たちが引き払い、屋敷が静寂を取り戻した頃だった。私は眠れずに、布団の中で雨音を聞いていた。

 不意に、雨音とは異なる音が鼓膜を叩いた。

 ――ヒック、ヒック。

 それは、しゃくりあげるような子供の泣き声だった。か細く、それでいて水を含んだように重い声。空耳かと思ったが、声は確かに裏庭の方角、あの竹林の奥から響いてくる。

 まさか。こんな嵐の夜に、子供がいるはずがない。しかし、その声には聞き覚えがあった。かつて自分が泣いた時の声に似ているような、あるいはもっと根源的な、懐かしさすら覚える響き。

 私は跳ね起き、障子を少しだけ開けた。濡れた竹の葉が擦れ合う音に混じり、また一声、あの子が私を呼ぶように泣いた。


            湿った闇の向こうで、封印された蔵が、口を開けて私を待っている気がした。

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