【第1章 第一章 雨の檻】
ワイパーが扇形に切り取る視界の先、雨煙にむせぶ山々が黒々と立ち塞がっていた。まるでこの世ならざる場所へ誘うかのように、車は県境のトンネルを抜け、私の故郷である雨宮の集落へと滑り込んでいく。
タクシーの運転手は、料金を受け取ると逃げるように去っていった。残されたのは、私と、降りしきる雨の音だけだ。十年ぶりに踏む故郷の土は、腐葉土と泥が混じり合ったような、甘く重たい異臭を放っている。この匂いを嗅いだ瞬間、私の肺の奥底に沈殿していた澱のような記憶が、じわりと浮き上がってくるのを感じた。
目の前に聳える雨宮の本家は、風雨に晒された黒い板壁が濡れそぼり、まるで巨大な軟体動物がうずくまっているかのような威圧感を放っていた。傘を叩く雨音が、鼓膜を執拗にノックする。
「……帰ってきてしまった」
口をついて出た言葉は、雨音にかき消された。私は無意識のうちに、左手首に巻かれた朱色の組紐を右手で強く握りしめていた。祖母が編んでくれたこの紐だけが、私の体をこの世に繋ぎ止める唯一の命綱であるかのように。
重たい引き戸を開けると、カビと線香が混ざった淀んだ空気が、冷たい塊となって顔に吹き付けた。薄暗い土間に、喪服姿の女性が一人、亡霊のように立っている。
「湊……さん、かね」
声をかけてきたのは、本家の叔母だった。昔は「湊ちゃん」と甲高い声で呼んでいたはずの彼女の声は、枯れ木が擦れるように乾いていた。
「ご無沙汰しております、叔母さん」
「……まさか、本当に帰ってくるとはね」
叔母は私の全身を舐めるように視線で這った。その眼差しには、久しぶりの再会を喜ぶ色は微塵もない。あるのは、手負いの獣を見るような憐れみと、そして隠しきれない「恐怖」だった。彼女は何を恐れているのか。私の背後にある闇か、それとも私自身か。彼女は視線を逸らすと、「姉さんが待ってるよ」と短く告げ、奥の闇へと消えていった。
広大な仏間は、幾重にも焚かれた線香の煙で白く霞んでいた。鴨居の長押には、歴代当主の遺影がずらりと並び、その全てが眼下の生者をねめつけるように下を見下ろしている。視線の集中する先、部屋の中央に設えられた祭壇に、祖母のフミは横たわっていた。
私は白木の数珠を握りしめ、棺の中を覗き込んだ。享年八十八。死に化粧を施された祖母の顔は、蝋細工のように白く、そして小さかった。生前、私を過保護なまでに愛し、そして村の因習で縛り付けた絶対者。その支配の呪縛が解けた安堵感が胸をよぎる。
「……おばあちゃん」
安らかな顔だ、そう思おうとした。だが、違った。蝋燭の炎が揺らぎ、陰影が動いた瞬間、私は息を呑んだ。
祖母の唇は、微かに、しかし確実に歪んでいたのだ。左の口角だけが引きつり、閉じられた瞼の下の眼球が、何かを訴えるかのように微細に動いている錯覚すら覚える。
それは笑みではない。恐怖に引きつった叫びか、あるいは私への警告か。死してなお、彼女の口元は、何かを――決して口にしてはならない言葉を、語りかけようとしていた。
背筋を冷たいものが走り抜ける。雨音に混じり、どこか遠く――裏庭の蔵の方角から、微かな軋み音が聞こえた気がした。
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